北 マケドニア 国旗。 【北マケドニア】どんな国?名称でもめる北マケドニアの歴史

マケドニア(北マケドニア)国旗の特徴や意味、由来、誕生年、フリーイラストや画像を徹底的に解説します

北 マケドニア 国旗

マケドニア国旗は赤地に8本の光線と日輪から出来ています。 旗比率は1:2。 長方形な旗ですね。 赤色は自由と進歩を求める戦いを表しています。 黄色は太陽は生命力と歓喜を表しています。 8本の光線については資料を当たってみたのですが… 出てきません!! マケドニアの州とか地方自治体の数かな~とか思い調べてみましたが… マケドニアはオプシュティナと呼ばれる行政区分で分けられていますが、 その数…10!! 8じゃない!!オーマイガー!! 民族も8以上ありそうだけど主要民族は3前後…。 その後、東ローマ帝国の力が衰えてくると群雄割拠の状態となります。 12世紀末には第二次ブルガリア帝国、セルビア王国、ラテン帝国、ニカイア帝国、 といった国家での勢力争いが繰り広げられます。 その後オスマン帝国の侵攻により1371年にマケドニアは、 オスマン帝国の支配下となりました。 1878年、オスマン帝国からブルガリア公国が独立。 したがマケドニア部分はオスマン帝国にまた併合されます。 1912年、第一バルカン戦争でオスマン帝国はマケドニアを失う。 しかし、マケドニアの支配権をブルガリア、セルビア、ギリシャが主張。 話がまとまらない為第二次バルカン戦争へと発展。 なんか一向にマケドニア建国できそうな気配がありませんね… 1913年、第二次バルカン戦争。 マケドニア地域の南部5割をギリシャ、西北部4割はセルビア(のちのユーゴスラビア)、ブルガリアは1割を手に入れる。 この西北部4割のセルビア領が、今のマケドニア共和国の領土となります。 1939年、第二次世界大戦。 この時ブルガリアは枢軸側につき、マケドニアへ侵攻、支配。 しかし敗戦に伴いユーゴスラビアはマケドニア北西部の支配を回復。 そのまま共産主義の連邦国家となる。 マケドニア人民共和国と呼称しました。 この時に制定された国旗がこちらです。 旧マケドニア共和国国旗 1993年、国連に加盟申請するがギリシャがガンギレ。 国名をマケドニア旧ユーゴスラビア共和国、に変更して国連へ加盟。 1994年、それでも怒っていたギリシャは経済封鎖を実施。 そこまでするのかギリシャ… 1995年、国旗と憲法を変更。 ギリシャの経済封鎖解除。 これで現在の国旗となりました。 マケドニア国旗(旧)の意味 マケドニア旧国旗はベルギナの星、と呼ばれています。 大小16本の光線を放つ星の意匠です。 これはアレクサンドロス大王の古代マケドニア王国の家紋です。 日の沈まない大帝国の象徴とされています。 しかしマケドニア共和国は国旗と国名の両方を、 ギリシャの抗議によって変更させられることとなるのです。 このベルギナの星は星と言われていますが、 陽の沈まない大帝国の象徴という話もあるように、太陽光線という説もあります。 マケドニア国旗とギリシャの対立 さて、ギリシャはマケドニアが採用した、 ベルギナの星の国旗と、マケドニアという国名に猛反発しました。 それというのも、ギリシャはマケドニア地方の南部を治めているのです。 つまり何俺達をさしおいてマケドニアとか使っているの? という話になるわけです。 しかもギリシャのマケドニア領の旗がコレ! ギリシャ領マケドニア …。 うむ…まぁ切れてもやむなしでは…? これがまたマケドニア地方じゃない処の旗がたまたまコレ、とかならね。 まだね、解らないでもないですよ。 すぐ隣同士でマケドニアの名前をお互い冠していたらね…? しかもギリシャは古代マケドニア王国の継承者を自認しているらしいです。 アレクサンダー大王、大人気やな…いやまぁ凄い業績を成し遂げた人ですが… 因みに国名も変えろと怒っていました。 切れすぎて最終的には経済封鎖を行うという始末…。 尚、当時のマケドニアはギリシャからの輸入に頼っていたため、 ギリシャに経済封鎖されるとどうしょうもなく要求を呑むしかなかったとの事。 こんな理由があって今の国旗へと変更する事になったのです。 しかしマケドニアの受難はまだ続くのであった…(おい) マケドニア国旗と旭日旗の関係 新しくなった新生マケドニア国旗でしたが、ある旗と似ていました。 そう、それはコレ…。 マケドニア共和国国旗 うん。 まぁそれなりに似ていますねウン…。 日本の旭日旗と似ていますね…。 という事でこの新マケドニア国旗が旭日旗に似ている!! と、韓国人の方などが怒っているようです…。 一難去ってまた一難とはこの事か… 実際旭日旗とマケドニア国旗に関連性は… うーん、無いのではないでしょうか。 まぁ太陽を意匠に採用して太陽から光線伸びていたら… 大体こんな感じのデザインになりますよね。 ギリシャの次は韓国やら中国に… ただ、正式に政府レベルでの抗議は今の処無いようです。 まぁ無駄に喧嘩売るのもって事でしょうね。 因みに良く混同される旭日旗と日章旗の違いについてはについて記述してあります。 よろしければ合わせてお読みください。 マケドニアの由来 マケドニアの由来について話します。 マケドニア共和国はその由来の通り国土の大部分が山地の内陸にあります。 高山地帯であり、まさに高地の人、の呼称にふさわしい地域と言えます。 なんかこうしてみると結構な哀しみを背負っていないか…? という気分になってくるのですが僕だけですかね… オスマン帝国に統治されていてようやく解放されると思った矢先、 三国に分割統治され… やっと独立(?)したと思ったら今度は国名と国旗を変えさせられ… 大変すぎでは… 次回予告: レインボーフラッグの異名をとる華やかな国旗! 使われている色の数はな、な、なんと…!! 幾つだと思います? 国旗の中ではかなり多い方だと思います。 (配置されている意匠にちょいちょい使われている色とかは置いておくとして) こうご期待です。

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[B! 芸術] 北マケドニアの国旗

北 マケドニア 国旗

【バルカン半島周遊6ヶ国】2日目 【1人参加旅ツアー・阪急交通社 トラピックス 】2019年5~6月 アレキサンダー大王の・・?! 北マケドニアの首都スコピエ市内でオールド・バザールを、中心部に向かって進んで行きます。 辺りはレストランやカフェなども立ち並ぶ。 ヌガーのようなお菓子も売っている。 マケドニアの国旗をイメージしたTシャツやアルバニアのTシャツまで売られている。 こういったもので派手なデザインがあると欲しくなる。 こちらのコカ・コーラのパラソルの向こうにあるのが 「ダウト・パシャ・ハマム」 Daut Pasha Hamam で15世紀に造られた大衆浴場。 今では浴場としては使われておらず、画廊となっているようだ。 なんか大きなモニュメントが見えてきました。 スコピエ市内には沢山の像が至る所にあります。 いちいち写真に撮っているとキリが無い程・・・。 ここからもスコピエの城塞跡が見える。 ここからはスコピエ市内が360度見回せれるようだ。 こちらのモニュメントにはライオンと兵士で守られたアレキサンダー大王の父親である フィリッポス2世を讃えた銅像 Philip II of Macedon Monument である。 ギリシャ自治体などの後援により2004年に建てられたものだが、その当時は別の場所にあり2012年にここ移築された。 細かく断続的に水が噴き上がる噴水。 フィリッポス2世像の噴水の様子 動画 その横にあるこちらの建物は マケドニアの商工会議所。 この辺りは北マケドニアの首都スコピエの中心部。 露店などもそこそこある。 こちら側のモニュメントはアレキサンダー大王の父親であるフィリッポス2世と対になるように、 アレキサンダー大王の母親である オリュンピアス像がある。 このスコピエの街は1963年に発生したマグニチュード6. 1の大地震によって建物の80%が破壊された。 その後に 「スコピエ2014計画」という都市復興計画が練られ、日本人の都市設計家:丹下健三氏の都市計画案が採用されたがその大部分は大幅に修正させられており原案通りの物は僅かだそうだ。 こちらの先にあるヴォドゥノ山頂には高さ66mのミレニアム十字という十字架が置かれていて、スコピエの人気写真スポットになっているそうだ。 このバルカン半島では英雄であるアレクサンダー大王。 その父親と母親も祭られているのである。 この辺りの建物はまだ意外と新しいものが多い。 どうも近代的な建物というより、無機質な感じで味気ないよう建物が並ぶ。。 石橋の右手前に見えるのは 「聖キリルと聖メトディウス兄弟」 Monument of Saints Cyril and Methodius でスラヴ文字とスラヴ語の文語を創設したとされている。 またスラヴ地方にキリスト教を初めて伝えたともされていて19世紀に兄弟揃って聖人とされた。 その左側にも何か銅像がある。 こちらの石橋は幅6m,長さ214mで15世紀頃に造られ、1963年の大地震でも潰れなかったそうだ。 1944年にはドイツ・ナチス軍に爆薬を設置され、この石橋は破壊寸前までいったが何とかこの橋の破壊は免れたそうだ。 この先にあるのはマケドニア自治独立闘争博物館と呼ばれる、まだ最近建てられた新しい建物だ。 こういう新しい建物を見ると、スコピエの街の歴史をあまり感じる事が出来ない。。 ヴァンダル川の麓にある像は、馬に乗った カルポシュという1689年にバルカン半島で起こったキリスト教の反オスマン帝国への反乱を起こした主導者のもの。 最終的にはオスマン帝国に鎮圧され逆らったものは虐殺され、捕虜になっていたカルポシュも最後はこの石橋付近で処刑されたという。 石で出来た橋を渡って行きます。 ちなみにこの時は知らなかったのだが、この川の中にも水に飛び込んでいる銅像などもあったようだ。。 ヴァンダル川にかかる石橋からの景色 動画 モニュメントの周りに設置されているライオンの像の口からも、水が噴き出している。 なかなか凝って作られているこの噴水。 さすがに噴水の外側を向いているライオンの像からは、水は吹き出ていない。 このバルカン半島は、特にこの北マケドニアと今呼ばれる国はアレクサンダー大王サマサマなのであろう。 そんな様子が感じ取れるこの噴水型モニュメント。 3日後にあのスティングがここに来て、コンサートをするそうだ。 その広告が置かれていた。 こちらのは1000年前後に西ブルガリア帝国で皇帝だった ツァール・サムイル Tsar Samoil の像。 この辺りはマケドニアでも中心地なので、アジア人観光客も見かける。 ただし日本人観光客の姿は全然見なかったね。 こちらの方へ進み、これからマザーテレサの記念館見学を行う予定。 その途中にはちょっと汚れた少年が箱を目の前に置いて、倒れ込んでいました。 ちなみにこの手を内股に挟む姿勢をする人はマザコンの傾向があるようです。 そんな日本ではほとんど見かけない物乞いには、興味を示さずに歩くツアー参加者達。 なかなか面白いペイントをした2階建てバスが走るスコピエの街。 マケドニアの国旗が風になびいています。 信号を渡ったこの左側にある建物がマザーテレサ記念館。 右は関係のないモスクのようです。

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北マケドニアの首都スコピエ市内は、像だらけの街

北 マケドニア 国旗

ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する共和国。 もとは、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴスラビア)を構成していた6共和国の一つで、1991年に独立国家となった。 暫定的な正式名称としては、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国Former Yugoslav Republic of Macedoniaを使っていたが、2019年1月に憲法上の国名を「北マケドニア共和国」に変更した。 北をセルビアとコソボ、西をアルバニア、東をブルガリア、南をギリシアと接する内陸国である。 面積2万5713平方キロメートル、人口202万2547(2002年センサス)、207万4000(2017)。 首都スコピエ。 民族構成はマケドニア人が全人口の64. 2%を占め、ほかにアルバニア人(25. 2%)、トルコ人(3. 9%)、少数民族としてロマ、セルビア人などからなる。 言語はマケドニア語、を使用。 マケドニア正教徒(約7割)とイスラム教徒(約3割)がほぼ全体を占める。 中央をバルダル川が南流し、この流域の南部は地中海性気候である。 東と西の国境沿いには1500メートルを超える山脈が連なり、多くの山間盆地が分布する。 なかでもスコピエの盆地は最大のものである。 同国の南西には陥没した盆地が多く分布し、オフリド湖、プレスパ湖も、最終氷期に氷河作用を受けたが、構造的には陥没湖である。 ビトラ盆地の中央部は低湿であったが、排水路の建設によって干拓された。 これらの盆地はおおむね大陸性気候である。 主要産業は牧畜、農業で、麦類、ブドウとワイン、ジャガイモ、トウモロコシ、トマト、タバコを産する。 肥沃 ひよく な沖積平野ではワタ、米が、山間部ではケシが栽培されている。 鉄鉱石、亜鉛、クロムなどの天然資源にも恵まれている。 旧ユーゴスラビアを構成していた各国のなかでは工業化が後れた地域である。 [漆原和子] 歴史マケドニアとは歴史的な地名であり、この呼称はアレクサンドロス大王の古代マケドニア王国に由来している。 山々が連なるバルカン半島にあって、マケドニアは肥沃な平野と良港テッサロニキ(現、ギリシア領)に恵まれ、豊富な鉱物資源を有していた。 そのため、古来この地域には多くの民族が去来した。 6世紀から7世紀にかけて、マケドニアに移動してきたのが南スラブ人であり、かれらが近代に至り、マケドニア人として自覚することになる。 マケドニア地方の民族構成は複雑であり、隣接するギリシアと同じギリシア系住民、ブルガリアやセルビアと同じブルガリア系住民やセルビア系住民、そして後者と共通のスラブ語を話しながら、かれらとは異なる南スラブの住民がいて、さらにトルコ系、アルバニア系住民もいた。 民族構成の複雑さに加えて、15世紀以来オスマン帝国のもとに深く組み込まれたため、この地域のスラブ語を話す住民の民族としての自覚が遅れた。 その結果、マケドニアはオスマン帝国からの独立や自治を達成した近隣諸国ギリシア、セルビア、ブルガリアの領土的野心の対象とされた。 1870年代から、これら3国がマケドニアの領有を主張して対立を繰り返した。 バルカン諸国の対立とヨーロッパ列強の利害が絡むなかで、最大の犠牲者はこの地方に住む住民であった。 マケドニアの住民の民族としての自覚は遅れたが、1893年には「マケドニア人のためのマケドニア」を掲げる内部マケドニア革命組織(VMRO)が結成された。 VMROは1903年に自らの目的を達成するため蜂起 ほうき し、一時的ながら自治政府を形成して共和国を宣言したが、オスマン帝国軍によって鎮圧された。 この蜂起は旧暦7月20日の聖イリヤの日に行われたためイリンデン蜂起とよばれている。 しかし、その後、1912年10月から1913年5月にかけて起きた第一次バルカン戦争で、オスマン帝国軍がバルカン連盟諸国に敗北してバルカン半島から撤退すると、マケドニアは権力の真空地帯となった。 マケドニアをめぐり、バルカン連盟諸国の領土要求が衝突し、バルカン諸国の間で第二次バルカン戦争(1913年6月~1913年8月)が生じた。 バルカン戦争後、マケドニアは分割され、戦争に勝利を収めたギリシアが50%、セルビアが40%、敗戦国ブルガリアが10%を領有した。 セルビアの領土となったマケドニアは、第一次世界大戦後の1918年12月に建国された「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」に組み込まれた。 第二次世界大戦期には、ユーゴスラビア内のマケドニア地方はブルガリアとイタリアによって占領された。 マケドニアでもパルチザン戦争が展開され、パルチザンが勝利を収めた。 1945年にユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、マケドニアは構成6共和国の一つとなり、マケドニア人は初めて国家をもつことになった。 社会主義ユーゴのもとで、マケドニア人が民族として承認され、マケドニア語やマケドニア文化が確立された。 [柴 宜弘] 政治-独立以後の発展1990年から顕著になるユーゴ解体の過程において、独立の方針を固めたスロベニア、クロアチアと、連邦維持のセルビア、モンテネグロとの対立を弱めようと、マケドニアはボスニア・ヘルツェゴビナとともに努力を重ねた。 しかし、1991年6月にスロベニアとクロアチア両共和国が独立を宣言し、クロアチアでは内戦が生じるに及び、マケドニアでも独立の方針が出された。 1991年11月に新憲法を制定して独立を宣言し、平和裏に独立したマケドニアにとって、最大の問題は国内のアルバニア人問題と隣国ギリシアとの関係であった。 一時、隣接するコソボやアルバニアから多くのアルバニア人が職を求めて流入し、社会問題となった。 また、「マケドニア」という国名や国旗を巡りギリシアと対立、関係が緊張化したが、1993年「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国(FYROM)」という暫定名称を用いることでギリシアの譲歩を引き出し、国際的な承認を得て国連加盟を果たした。 しかし、1994年にギリシア側がマケドニアに対する制裁措置という強硬手段に訴えたため、緊迫した状況が続いた。 1995年9月に国連の仲介により、国旗のデザイン変更を認めるなどマケドニアが妥協して政治的合意が成立し、両国の関係は好転したが、その後も自国内に「マケドニア」という地方をもつギリシアは「マケドニア」という国名を認めないという強硬な姿勢を崩しておらず、2011年時点でも国連の仲介が継続している。 ギリシアとマケドニアとの交渉過程で、国際的には「北マケドニア共和国」、国内的には「マケドニア共和国」とする提案が出されている。 にもかかわらず、善隣友好を掲げるグリゴロフのもとで、マケドニア外交は大きな成果をあげた。 内政面では、1996年11月に独立後、初の地方選挙が実施され、与党のマケドニア社会民主同盟が右派の野党連合をおさえて勝利を収めたが、1998年10~11月の総選挙では野党連合が躍進し、政権を奪取した。 2002年9月に行われた総選挙では、社会民主同盟が半数の議席を獲得し、政権に返り咲いた。 2006年には、任期満了に伴う国会総選挙の結果、内部マケドニア革命組織・マケドニア国民統一民主党(VMRO-DPMNE)中心の右派連合による内閣が成立。 2008年6月に行われた総選挙においてもVMRO-DPMNEは過半数を獲得して勝利を収め、アルバニア系の政党と連立を組み、第二次グルエフスキー政権を発足させた。 一方、国内のマイノリティであるアルバニア人問題については、2001年2月に、アルバニア人の権利拡大を目ざす武装勢力と治安部隊との衝突が生じた。 国際社会の監視のもと、政府とアルバニア系政党との長い交渉の結果、同年8月にオフリド和平合意が成立した。 この結果、憲法が修正され、マケドニア語とアルバニア語の平等、アルバニア人の国家公務員や地方公務員の比率を高めることなどが進められた。 政体は共和制。 議会は一院制、120議席。 元首は大統領(任期5年)。 1991年の独立後から、ヨーロッパへの統合を最大の政治課題として、民主化と市場経済化を進めてきた。 2005年12月、EU(ヨーロッパ連合)の加盟候補国になり、1995年にはいち早くNATO(北大西洋条約機構)との「平和のためのパートナーシップ」を結び、加盟申請を提出しているが、ともにギリシアの反対にあって足踏みしている。 国名問題の解決が必要である。 [柴 宜弘] 2018年6月、ギリシアとの間で「北マケドニア共和国」を国名とする合意が結ばれた。 翌2019年1月には憲法上の国名が変更され、同年2月に国連にも認められて公式に「北マケドニア共和国」が使用されるようになった。 [編集部] 経済・産業通貨はマケドニア・デナールDenar。 主要産業は農業、繊維、鉄などの鉱業で、伝統的に農業が盛んである。 2007年の国内総生産(GDP)は75億4900万ドル、1人当りGDPは3703ドル、貿易額は、輸出が33億5600万ドル、輸入が52億2800万ドル。 主要輸出品目は衣服、鉄・鋼鉄、石油・石油製品、タバコ、農産物などで、主要輸出相手国はセルビア、ドイツ、ギリシア、イタリア、ブルガリア、主要輸入品目は鉄・鋼鉄、石油・石油製品、乗用車部品、繊維などで、主要輸入相手国はドイツ、ギリシア、ロシア、セルビア、イタリア(2007)。 [柴 宜弘] 日本との関係日本は、1993年12月にマケドニアを「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」の名称で国家承認し、1994年3月に外交関係を樹立。 マケドニアの首都スコピエに名誉領事館を置いた。 [柴 宜弘] 2019年2月には正式名称「北マケドニア共和国」への変更を承認した。

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