オットー ワーグナー。 オットー ワーグナーとは

オットー・ヴァーグナー 『近代建築』

オットー ワーグナー

概要 [ ] のウィーンで展示会場を持っていたのはクンストラーハウス(kunstlerhaus)という芸術家団体であった。 ウィーンの美術界は印象派の影響もほとんど見られず保守的であったが、その中でも、、らの七人クラブ(Siebenerklub、主にの弟子)のように若手芸術家グループが生まれていた。 1897年、クンストラーハウスの保守性に不満を持つ若手芸術家らはを中心に造形美術協会を結成した。 クンストラーハウスがこれを認めなかったため、クリムトらはクンストラーハウスを脱退した。 こうして生まれたウィーン分離派には絵画、彫刻、工芸、建築などの芸術家が参加した。 1898年、月刊誌「ヴェール・サクルム」(、の意味のラテン語)を刊行し、作家らが執筆した。 同年、第1回分離派展を開催。 さらにウィーン市の土地を借り、実業家(哲学者の父)らの支援を受けて、専用の展示施設、(分離派会館)を建設した。 会員の建築家オルブリッヒの設計によるもので、入口上部には"DER ZEIT IHRE KUNST,DER KUNST IHRE FREIHEIT"(時代には芸術を、芸術には自由を)のモットーが掲げられた。 1898年-1905年(クリムト脱退まで)の期間に23回の展覧会を開催した。 総合芸術を志向した分離派は、工芸品の展示も行い(クンストラーハウスは絵画・彫刻のみで、工芸等の展示は行わなかった)、会場のデザインをホフマンが手掛けた。 1903年、ホフマンとモーザーは、実業家フリッツ・ヴェルンドルファーの支援を受け、の活動を始めたが、こうした総合芸術志向に対して、画家ヨーゼフ・エンゲルハルト()ら純粋芸術を志向する会員たちは不満を抱いていた。 1905年、画家()がミートケ画廊()の顧問となり、展覧会を企画したことを直接のきっかけとして、をめぐる論争が起こった。 投票が行われた結果、モルをはじめ、クリムト、、ホフマン、オルブリッヒら24名は脱退した。 クリムトらは後にオーストリア芸術家連盟を結成した。 エンゲルハルトら残ったメンバーは胴体分離派と皮肉られた。 その後も分離派の活動は続くが、美術史上に残るのは主として1897年-1905年の活動である。 主な展覧会 [ ]• 第1回(1898年):造園協会で開催。 会員のほか、ロダン、シャヴァンヌ、シュトゥックら国外の作品も出展。 皇帝が会場を訪れた。 第2回(1898年):セセッション館で開催。 第6回(1900年):が収集した浮世絵・工芸品などの日本美術を出展。 第7回(1900年):クリムトの「哲学」(ウィーン大学天井画のために制作)を出展。 第8回(1900年):工芸を中心にした展覧会で、スコットランドの建築家らを招待。 第10回(1901年):クリムトの「医学」(ウィーン大学天井画)を出展。 第14回(1902年):マックス・クリンガーのベートーヴェン像(彫刻)の完成を祝して開催。 クリムトは壁画「ベートーヴェン・フリーズ」を制作。 第18回(1903年):クリムトの回顧展示。 関連する人物 [ ] 初期分離派 [ ]• 周辺 [ ]• :「ヴェール・サクルム」に寄稿。 :分離派展への出展はクリムト脱退後の1913年、1918年。 注釈 [ ].

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オットー・ワーグナー・パヴィリオン・カールスプラッツの魅力・地図・行き方【JTB】

オットー ワーグナー

クレンペラーの偉大さを如実に示した歴史的録音、ワーグナー:管弦楽曲3枚分のアルバムを2枚に集成。 新規解説付。 英オリジナル・アナログ・マスターテープから新規で復刻 大火傷から復活し体調が優れていたクレンペラーが1960年と翌年に一気に録音を行ったワーグナー:管弦楽曲集を2枚に集成しました。 以前市販ではSACDシングルレイヤー3枚でリリースされていましたが、今回SACDハイブリッド盤として、完全新規で英オリジナル・アナログ・マスターテープより復刻を行っています。 強固な意志で貫かれた、強靭なこれらのワーグナー録音は、クレンペラーの偉大さを示した歴史的録音です。 新規解説付。 永久保存盤です。 ワーグナーの管弦楽曲は1960年と翌年に録音され、LPでは15曲が作曲年代順に3枚に分かれて発売されました。 CD時代では「ジークフリート牧歌」を入れて全16曲が2枚に収められています。 ちょうどこれらの録音の際のクレンペラーは大火傷から復活し体調が優れていた時期にあたり、1960年録音のメンデルスゾーンの一連の録音など、後に名盤と言われるものを含め、多くの録音が行なわれました。 ワーグナーは総じてテンポが遅いこともあり、曲調に合った重厚さが従来の緻密な解釈と合わさり、スケールの大きい演奏となっているのが特徴です。 ただ、録音は同じ時期に行なわれていたものの、こちらも音質も千差万別でした。 またコンディションにも差があるためマスタリングは困難を極めましたが、オリジナルを重視しました。 その効果は絶大です。 今回の復刻に際しては、オリジナルのアナログ・マスターテープから最新でデジタル化を行ったマスターを聴いたところ、違いはありましたが、総じて整ったバランスであり、真摯な音が刻まれているのを確認できました。 そのため、極力オリジナルのバランスを重視し、音楽的な観点でのマスタリングを心掛けています。 それにより、楽器の距離感や奥行きの見通しが良くなり、さらに定位が向上したことで各曲の録音としての一貫性を感じることができるようになりました。 まさにクレンペラーの偉大さを如実に示していると言えるこれらのワーグナーの管弦楽曲集の内容に相応しい、最新の高音質復刻盤をお届けします。 尚、「ジークフリート牧歌」に関しましては、2017に発売しました「ワルキューレ第1幕他」 TDSA37 と同一曲が今回入っておりますが、今回の発売ではあらためてアナログ・マスターテープからデジタル化を行っています。 このシリーズでは、SACD層では伸びのある高域と柔らかなニュアンスと共に高い解像度と豊かな音場を、CD層はまとまったしっかりとした音と共に押し出される実在感ある音色を目指しています。 CD自体のポテンシャルも高く、むしろ両方の良さを堪能できるSACDハイブリッド盤としてもお楽しみください。 今回のDefinition Series第26弾は、クレンペラーの名盤、計2タイトルを発売いたします。 歌劇「リエンツィ」序曲、 2. 歌劇「タンホイザー」序曲、 3. 歌劇「タンホイザー」第3幕への前奏曲、 4. 歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲、 5. 歌劇「ローエングリン」第3幕への前奏曲、 6. 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲、 7. 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」徒弟たちの踊りとマイスタージンガーの入場 第3幕 、 8. 舞台神聖祝典劇「パルジファル」前奏曲 <DISC2> 9. 歌劇「さまよえるオランダ人 序曲、 10. 楽劇「ラインの黄金」-ヴァルハラ城への神々の入城、 11. 楽劇「ワルキューレ」-ワルキューレの騎行、 12. 楽劇「ジークフリート」-森のささやき、 13. 楽劇「神々のたそがれ」-ジークフリートのラインへの旅、 14. 楽劇「神々のたそがれ」-ジークフリートの葬送行進曲、 15. 楽劇「トリスタンとイゾルデ」-前奏曲と愛の死、 16. ジークフリート牧歌 【演奏】 フィルハーモニア管弦楽団 オットー・クレンペラー 指揮 【録音】 Recorded : 2-3. III. 1960 1 、 23-24. 1960 2 、 3. III. 1960 3 、 25. III. 1960 4 、 27. 1960 5 、 1-2. III. 1960 6 、 8. III. 1960 7 、 14. 1961 8 、 24-25. 1960 9 、 24. 1961 10 、 10. III. 1960 11 、 24. 1961 12 、 1-2. III. 1960 13 、 27. 1960 14 、 1-3. III. 1960 15 、 24.

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ウィーン分離派

オットー ワーグナー

生涯 [ ] 1841年、ウィーン郊外で公証人の家に生まれた。 父は5歳のときに肺病で死去。 母は遺産を元に賃貸住宅を建て、その設計を建築家ハンゼン に依頼している。 1857-1859年、ウィーンの工科大学、次いでハンゼンの勧めで1860-1861年にの中心地であったベルリンの建築アカデミーで学んだ。 ウィーン美術アカデミーに進学し、1863年卒業。 同年、ウィーン市立公園に建てる会館(Kursalon クアサロン)のに応募し1等賞を得た(実際にはワーグナー案から大きく改変を受け建設された )。 当時はを飾る公共建築が数多く建てられ、な建築観が主流だった時期である。 ワーグナー初期の作品も古典主義的なもので、連邦銀行、ワーグナー別邸、都市計画案アルティブス(Artibus) などがある。 この間、母親の意向により1863年に結婚。 1880年に母が死去した後に離婚し、1881年、18歳下のルイーゼと再婚した。 1890年に市の都市計画顧問に就任し、ウィーンのための都市計画プロジェクトの準備に取り掛かる。 同年以降、ウィーン市の交通施設・ドナウ整備委員会に参画し、ドナウ運河の水門、ウィーン環状鉄道の駅舎、トンネル、橋梁(1894-1899年)などの計画に関わった。 1891年に作品集を刊行。 1894年にハゼナウアー() の後任としての教授に就任した。 1897年、画家を中心にが結成されると、ワーグナーの教え子やが参加。 やがてワーグナー自身も分離派に加わった。 この頃の作品には、マジョリカハウス、カールスプラッツ駅など、歴史主義を離れ、的な傾向が強くなる。 1905年、内部の対立からクリムト、オルブリッヒ、ホフマンらとともに分離派を脱退した。 この前後にわたって博物館の設計に執念を燃やした。 1900年、ワーグナーはカールスプラッツ(カール広場)に博物館の建設を提案した。 翌年、ウィーン市は第1次のを行い、ワーグナー案を含む8案を入賞としたが、反対派のため紛糾した。 ワーグナーは度々設計変更を行い、1910年には世論に訴えるため、建設予定地にの実物大模型を造ったが大きな反響は得られず、結局博物館が実現することはなかった。 後期の代表作には、ウィーン郵便貯金局(1906年-1912年) 、シュタインホーフ教会堂(1907年)などが挙げられる。 1912年、71歳のワーグナーはアカデミーを停年となり、1914年まで客員教授として学生を指導した。 妻が未亡人になった後のことを考え第2の別荘を建てたが、1915年に妻が死去。 中は失意の状態にあり、1918年に死去した。 作品 [ ] から出発し、ウィーン分離派に参加する頃からの影響を受けた建築様式に移っていった。 これら過渡期の作品を経て、ウィーン郵便貯金局で近代建築の純粋な空間表現に到達した。 シナゴーグ (ブダペスト、1868年)• グラーベンホーフ(1873年):ティーネマンとの共作。 連邦銀行(1884年)• ワーグナー別荘I(1886年):現エルンスト・フックス美術館。 ホヨース宮 (1890-91年):自邸として建設した。 アンカーハウス(1895年):古典主義的な構成であるが、低層部分をガラスのカーテンウォールとする。 マジョリカハウス(1898 - 1899年):植物模様のマジョリカタイルで壁面を覆ったアール・ヌーヴォー風の集合住宅。 カールスプラッツ駅(1899年)鉄骨構造になっていて構造体であるむき出しの鉄骨組にはめ込まれた二センチメートル厚の大理石版を外装に、そして鉄骨に支持された五センチメートル厚の石膏プラスター壁を内装として構成されている。 両材の間隙は三センチメートルである。 相互に向き合った2つの建物からなり、それぞれに一つのプラットホームを有する。 ドナウ運河堰監視所(1907年)一階部分には他に堰止め板と付属品用の倉庫があった。 また最上階の大きなガラス窓のある部屋は固定クレーンの操作室となっていた。 二階の中央部とその上部の頂塔のような最上階に、ウィンチのついた固定クレーンが備え付けられ、固定クレーンがドナウ運河に面したファサードを突き抜けて突出していた。 シュタインホーフ教会堂 (1907年)• 郵便貯金局 (1906年-1912年):ガラスに囲まれた中央ホールによって近代建築の抽象的空間を生み出している。 外壁の仕上げ石材をビスで留めることで、張りぼてであることを率直に表現する(シュタインホーフ教会堂等も同様)。 ワーグナー別荘II(1913年) 建築観 [ ] ワーグナーは、芸術の課題は時代の課題であり 、現代の建築は新しい材料と現代の要求に対応しなければならない 、とする。 有名な「芸術は必要にのみ従う」 という標語は、の合理主義的な建築観を引き継ぐもので、の理念を表現したものである。 世界中どこであれ、建築家は伝統と対峙することはなく自身が捉えたその地方の脈絡、場の印象、そして伝統の印象といったものと対峙するのだと主張していてこのことは従来の様式建築の終焉を意味していると言える。 また芸術形態の今後の展開の仕方について思考し、これを産業と結びつけることを強く主張した。 これは仕事の分業を、つまり種々の異なる部材を同時に生産することによって、製品の組立てがより迅速になることを主張した。 その他 [ ] 1980年代に500シリング紙幣の肖像として採用された。 日本語文献 [ ]• オットー・ヴァーグナー『近代建築』(Moderne Architektur)。 ・佐久間博訳、 ウィーン美術アカデミーの教授就任講義を元にしたもので、近代生活にふさわしい合理的・機能的な建築観を示している(初版1895年:邦訳の底本は第3版1901年)• H・ゲレーツェッガー、M・パイントナー『オットー・ワーグナー ウィーン世紀末から近代へ』(、1984年) ワーグナーの生涯と作品を紹介。 伊藤哲夫・衛藤信一訳、原著初版1964年• 『オットー・ワーグナー作品集』 川向正人解説、関谷正昭写真、東京美術、2015年• 越後島研一『世紀末の中の近代 オットー・ワグナーの作品と手法』丸善・建築巡礼、1989年 注釈 [ ]• ゲレーツェッガー他、P10。 ハンゼンはデンマーク出身で、や、等の設計者として知られる。 の設計により1865-67年に建設。 美術館を中心にした理想的な地域整備計画案である。 後にアカデミー教授に選出されたのは、この案に対する高い評価によるところが大きいという。 ゲレーツェッガー他、P20。 新王宮、、などをゼムパーとともに設計した。 ゲレーツェッガー他、P193-199。 新建築社『NHK 夢の美術館 世界の名建築100選』、2008年、206頁。 ゲレーツェッガー他、P45-48。 『世界の美しい階段』、2015年、30頁。 ワーグナー、p32• ワーグナー、p37• ワーグナー、p54 関連項目 [ ]• Links [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 , Wien, 1891. 作品集• , Wien, 1897. , Wien, 1906.

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