大艦 巨砲 主義。 もし社会主義になったらどうなるん? : 大艦巨砲主義!

日本は大艦巨砲主義だから負けたという風潮

大艦 巨砲 主義

その節目とあってか、いくつかのメディアで大和を題材にした記事を見かけましたが、その一つにこんなのがありました。 世界最大の46センチ主砲が敵戦艦に火を噴くことはなく、この最後の艦隊出撃で、撃墜したとされる敵機はわずか3機だった。 出典: 毎日新聞の記事では、宗教家の言葉を引く形で「大艦巨砲主義の誇大妄想」とそれが生んだ「浮沈戦艦への信仰」と、批判的・否定的なトーンで伝えています。 NHKでも過去に歴史ドキュメンタリー番組「その時歴史が動いた」で『戦艦大和沈没 大艦巨砲主義の悲劇』を放映していましたし、ざっと例を挙げられるだけでも、戦艦大和を大艦巨砲主義の象徴として批判的に扱うメディアは多いようです。 このように、 「第二次大戦では強力な戦艦を主力とする大艦巨砲主義を空母機動部隊を中心とする航空主兵思想が真珠湾攻撃、マレー沖海戦で打ち破ったが、初戦の勝利に囚われた日本は大艦巨砲主義に固執し、逆に初戦の失敗から学んだアメリカは航空戦力で盛り返した」のような説明をする本や人はよく見られますね。 真珠湾攻撃で日本海軍機の攻撃を受ける米戦艦(ウィキメディア・コモンズ) ところで、この大艦巨砲主義という言葉。 大雑把に言えば、敵を撃破するために大きな戦艦に巨砲を積むという思想ですが、現在でも時代遅れの考えを批判する際に使われています。 近年、メディアでどういう風に使われたのか、ちょっと見てみましょう。 「安倍政権の原発政策は、時代遅れの大艦巨砲主義」(マスコミ市民,2013年8月)• 「生産部門におもねる豊田家--復活する「大艦巨砲主義」 」(選択,2011年4月)• 「時代錯誤の「大艦巨砲主義」か「日の丸」製造業の大再編」 月刊ベルダ,1999年10月) 製造業に関わる批判例が多いですね。 重厚長大な製造業イメージが、大きいフネに巨砲を載せる大艦巨砲主義と重ねて見えるので、このような批判的意味合いを持った比喩表現として使われているのだと思います。 いずれにしても、現代において「大艦巨砲主義」とは、敗北のイメージを持った、ネガティブな言葉と言えるでしょう。 大艦巨砲主義ニッポン。 戦艦何隻建造した? では、第二次大戦中の日本はどのくらい大艦巨砲主義に毒されていたのでしょうか? 第一次大戦後、列強各国は重い財政負担となっていた建艦競争を抑えるため、海軍軍縮条約を結び各国の戦艦建造・保有に制限をかけ、軍拡競争に歯止めをかけました。 この軍縮条約以前の時代こそ、大艦巨砲主義と言える思想が世界に蔓延っていたと言っても良いかもしれません。 この海軍軍縮条約は1936年末に失効を迎えたため、以降は自国の好きなだけ戦艦を建造出来ます。 大艦巨砲主義の日本は、きっとどこよりも大量に建造している事でしょう。 軍縮条約失効以降に建造された戦艦を、日米英の3カ国で比較しました。 海軍軍縮条約失効以降の日米英戦艦建造一覧 ……あれ? 建造数・進水数共に日本がブッちぎりで少ないですね。 アメリカは12隻起工して10隻進水、イギリスは6隻起工して全て進水させているのに対し、日本は大和型を4隻起工して大和と武蔵の2隻進水、信濃1隻は空母に転用、もう1隻は建造中止で解体されています。 戦艦として進水した数で見ると、日米英で2:10:6です。 アメリカの5分の1、イギリスの3分の1の数です。 さらに言えばイタリアが建造した戦艦(3隻)より日本の建造数は少なく、列強国の中で最低の数です。 こうして各国の戦艦建造実績を比較すると、日本が戦艦に偏重していた訳ではない事が分かります。 もっとも、これは多国間の比較であり、工業力の差が現れただけ、という見方もあるかもしれません。 しかしながら、開戦に先立つ1941年11月には大和型戦艦3番艦、4番艦の建造は中止され、後に3番艦は空母に変更されている事からも、開戦準備の段階で戦艦以外の艦艇が優先されているのが分かります。 よく見られる言説に「真珠湾攻撃やマレー沖海戦で航空機が戦艦を撃沈し、大艦巨砲主義の時代が終わった」というものがありますが、それらの戦闘が行われる1ヶ月前に日本はこれ以上戦艦を建造しない方針が取られているのです。 太平洋戦争開戦時、日本は戦艦を10隻保有していましたが(大和型2隻は戦中に就役)、いずれも軍縮条約以前に建造された戦艦で、最も新しい戦艦陸奥でも就役から20年が経過していました。 中でも低速で威力の劣る35. 6センチ(14インチ)砲搭載の扶桑型・伊勢型の4隻は、戦艦戦力として期待されておらず、伊勢型2隻は航空機を搭載する航空戦艦に改装され、扶桑型2隻は航空戦艦あるいは空母への改装が計画されるほどでした。 航空戦艦改装後の伊勢。 後部の主砲が撤去されてる(ウィキメディア・コモンズより) このように戦力価値の低い戦艦は航空戦艦・空母に転用が計画されていた訳ですが、このような方針を大艦巨砲主義を掲げる組織が行うでしょうか? 空母4隻を失ったミッドウェー海戦後も空母や補助艦艇の建造はされますが、戦艦建造は一顧だにされません。 対して、イギリスは戦争が終わっても戦艦を作り続けましたし、アメリカに至っては1991年の湾岸戦争でも戦艦を出撃させてますが、別に大艦巨砲主義と呼ばれる事はありません。 何かヘンですよね? 湾岸戦争でイラク軍を砲撃する戦艦ミズーリ(ウィキメディア・コモンズより) 「巨大」なモノへの信仰から大和を造った? 日本海軍にとっての戦艦の扱いがこのような状況にも関わらず、なぜ日本海軍は大艦巨砲主義だと言われていたのでしょうか? 大和型が世界最大の3連装46センチ(18インチ)砲を搭載していた世界最大の戦艦であった事、つまり「巨大」であった事が考えられます。 例えば、先の毎日新聞の記事中では、こんな事が書かれています。 「大国主命、奈良の大仏……。 古来、日本人は『巨大なるもの』への信仰がある」。 宗教学者の山折さんは説明する。 ただし、もちろん、巨大戦艦は神仏などではなかった。 出典: このように、日本人の巨大さそのものへの信仰が大和を生んだとする言説もちょくちょく見られます。 しかし、 失敗の原因を民族性に求める言説はあまりに大雑把過ぎます。 このような言説に対し、航空主兵の尖兵である航空自衛隊教育集団の澄川2等空佐は、大和型建造の目的について以下のように説明し反論しています。 「強力な攻撃力を追求することであって、単なる巨大さへの信奉では決してない。 大和級の設計概念は、小さく造る事である。 (中略)18インチというという世界最大の艦砲を9門も搭載し、その18インチ砲に対抗しうる防御力を有しながらも、全体が当初の考えどおりコンパクトな艦体にまとめられたというのが大和級戦艦の特徴である」 出典:澄川浩「日本海軍と大艦巨砲主義」朋友26巻4号 大和型は強力な攻撃力と防御力を小さな艦に収めた事を特徴としており、大きい事それ自体は目的では無い、と否定しています。 考えてみれば当たり前の話で、大きいとコストもかかれば燃費も悪くなります。 大きさに信仰なんてものは関係なく、当時の状況と判断と技術がそうさせた結果であり、信仰にその原因を求めるのは問題を単純化して見ようとする悪い例です。 しかし、大和型を建造させた判断とはどのようなものだったのでしょうか? そして何故、結果的とは言え世界最大になったのでしょうか。 大和型建造に至るまでの日本海軍が置かれた状況と、判断を見てみましょう。 なぜ大和は建造された? 当時の状況と判断について、先に挙げた澄川2等空佐が、空自の部内誌で以下のようにまとめています。 演習や実験においていかに航空攻撃力がその可能性を見いだしたとしても、実戦においてその威力を示すまではどのような用兵者もその価値を信じ切るには至らないというのが本当のところだと考える。 戦艦無用論がいかに強く提唱されても国の命運を賭けてまで、戦艦の砲戦力を全廃することなど到底採りうる方策ではなかったというのが現実である。 出典:澄川浩「日本海軍と大艦巨砲主義」朋友26巻4号 大和型以前の日本戦艦、つまり建造から20年近く経過した旧式戦艦では、海軍軍縮条約失効後に建造される他国の新戦艦に対抗出来ませんでした。 しかも、大和型が計画された当時はまだ、澄川2佐が言うように、航空機による戦艦撃破は一度も実証されていません。 実験では撃破の可能性が示唆されていたものの、停泊中の戦艦に対しては1940年のタラント空襲と1941年の真珠湾攻撃、作戦行動中の戦艦に対しては1941年のマレー沖海戦が起きるまで実例がありませんでした。 このため、対抗上新戦艦が必要だったのです。 サウスダコタ級戦艦マサチューセッツ(中央、ウィキメディア・コモンズより) 大和型が巨砲を持って生まれたのも理由があります。 当時の日本の国力では空母建造と並行して戦艦を揃えるのは不可能なため、建造出来る戦艦の数は限られました。 数の劣位を、質でなんとか埋めようとしていたのです。 戦艦は最も大量生産からかけ離れた兵器で、アメリカでも戦艦を同じ海域に大量投入する事は難しかったため、この考えはそれなりに説得力がありました。 大和型が活躍出来なかったのは何故? しかしながら、大和型建造が大艦巨砲主義によるものではないとしても、大和型はさして戦果を挙げていません。 この事実は、大艦巨砲主義の欠陥を説明する上で、よく根拠として出されているものです。 トラック泊地に投錨したままの状態が多かった大和は、「大和ホテル」とアダ名されたと言われています。 ソロモン諸島やニューギニアで熾烈な海戦が行われ、アメリカの新戦艦サウスダコタ、ワシントンに戦艦霧島が撃沈される戦艦同士の砲撃戦も発生していましたが、大和はそれに加わりませんでした。 この原因として、城西国際大学の森雅雄准教授はいくつかの説を挙げています。 大和には聯合艦隊司令部が置かれているので容易に移動できない• 燃料の不足(宇垣纏第一戦隊司令、淵田美津雄航空参謀ら)• 怯懦(きょうだ)のせい(御田俊一) このように推測出来る理由は複数ありますが、だからと言って戦艦が活躍出来なかった訳ではありません。 森准教授・澄川2佐共に、日本が保有する戦艦で最も古い金剛型4隻が忙しく太平洋を行き来し、戦艦同士の戦闘から陸上砲撃、艦隊護衛と幅広い任務で活躍を見せている事を指摘しています。 最古参の金剛型でこれですから、最新の大和型が活躍出来ない道理は無いのですが、結局のところ、日本海軍は大和型に活躍の場を与えることが出来なかったのです。 これは上述の理由の通り、大艦巨砲主義に由来するものではありませんでした。 国民が望んだ大艦巨砲主義敗北論 さて、ここまでで日本海軍は大艦巨砲主義のように凝り固まった思想で大和を建造したのではなく、むしろ航空戦力への投資に重点を置きつつ、それなりの妥当性を持って大和の建造に臨んだ事がご理解頂けたと思います。 しかしこうなると、なんで大艦巨砲主義を信奉した日本海軍は敗れた、という言説がこれまでまかり通って来たのでしょうか? このような戦後の「大艦巨砲主義批判」について、森准教授は「この批判はイデオロギーであると断じる」と結論付けています。 森准教授は最も早い1949年に出された日米戦回顧録である高木惣吉「太平洋海戦史」に着目し、その中に書かれた日本が初戦の勝利に驕って航空軍備拡張に立ち遅れたという記述が、「太平洋海戦史」の1年半後に出版された淵田美津雄・奥宮正武「ミッドウェー」で「戦艦中心主義の時代錯誤」が加えられ、それがベストセラーとなった事を指摘しています。 「大艦巨砲主義」を理由とした敗戦は、物量に負けたという実感的な理由よりも、「より周到であり反省の契機もあって、より上等で良心的で服従するに足りるように見える」(森准教授)ので、国民に受け入れられたのです。 一方、澄川2佐はもっと容赦の無い結論を導いています。 戦前の戦争計画では、侵攻してくるアメリカ海軍の戦力を削りつつ、最終的に日本の委任統治領である南洋諸島で決戦を行って撃滅する想定でした(漸減作戦)。 戦中の日本海軍はその為に航空戦力・空母戦力の整備に注力し、1944年にほぼ企図した通りにマリアナ沖海戦が展開され、その結果日本は一方的に敗北しました。 このように澄川2佐は、日本海軍の想定通りに進んだけど負けた事を指摘しており、アメリカに戦争を挑んだ事自体が敗因だと結論付けています。 対アメリカを想定して戦争準備してきたのに、アメリカに戦争を挑んだ事自体が敗因だとすると、大艦巨砲主義・航空主兵思想以前の問題です。 大和建造が間違いだったのではなく、日本人が選んだ道である対アメリカ戦争そのものが間違っていたという結論は、日本人にとって、残酷で不都合な真実でもありました。 敗戦の理由を知りたがっていた日本人にとって、「航空戦力を軽んじた大艦巨砲主義」というのは、自分が傷つかない心地よい敗因だったのです。 戦後に「大艦巨砲主義批判」を行った人も同様で、批判者に南雲艦隊の源田実航空参謀や、先述の淵田・奥宮両氏のような航空参謀出身者が多い事からもそれが伺えます。 敗因を大艦巨砲主義のせいにすれば、航空参謀としての自分の責任を回避でき、自分は傷つかずに済みます。 戦艦大和(ウィキメディア・コモンズより) 間違った戦争のおかげで大した活躍も出来ず沈んだ大和は、日本人にとって「間違った選択」の象徴として祀り上げるには都合の良い存在だったのです。 本当はもっと根本部分で間違えていたにも関わらず、です。 日本国民にとって、なんとも歯がゆい結論に至ってしまいました。 しかし、戦後70年を経た今、これを読んでいるほとんどの方は、大戦の問題からは自由なはずです。 そろそろ本当の敗因を見つめ直し、誤った選択を繰り返さないために考えてみるべきではないでしょうか。 そして、大艦巨砲主義の象徴のような不名誉かつ誤った扱いから、彼女らを解放してあげてもいいと思うのですが……。

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「大艦巨砲主義」ということば

大艦 巨砲 主義

思想 [ ] 背景 [ ] 19世紀末ごろから主に蒸気機関の発達によって、大型で高速の艦艇が作れるようになった。 同時には大型化するほど射程も伸び、威力も大きくなる。 そこで大型の軍艦に大型の砲をより多く搭載しようという考え方が大艦巨砲主義であり、19世紀末から20世紀前半まで主要海軍国で支持されていた。 のでイギリスとドイツが・を含むで衝突し、砲撃戦の重要性が再認識されたことで各国の大艦巨砲主義は一層強まった。 [ ] でも、時ので大艦巨砲と「艦隊決戦」を至上とする考え方が確立された()。 その後も後半期まで・上の主流となった。 長駆してくる艦隊を全力で迎撃・撃退するのが基本方針であり、その際の主役は戦艦とされ、・・等は脇役に過ぎないという思想があった。 [ ] 大艦巨砲主義の進展はとも関連しているという意見もある。 [ ] 「」が画期的だったのは、多数の主砲の射撃管制を可能とするの完成あってのことである。 頃まで各国の戦艦はと射撃を用いた射撃管制装置を主用していた。 しかし米英では以降の実用化により、着弾観測については光学式測距儀よりもレーダーを使用した電測射撃に移行していった。 これに対し、日独は米英に電子兵装で格段に後れを取り、電測測距と併用したものの、光学式測距儀を最後まで実戦で主用した。 なお、フランスはすぐに敗戦したため、射撃用レーダーを搭載したもののその効果は不明である。 イタリアは終戦時まで対空見張り用レーダーのみだった。 光学式の測距は特に遠距離射撃では誤差が大きく、近距離でも夜間、曇天、悪天候などで視界の悪い時にレーダー管制に劣っていた。 そのため、水上艦艇同士の戦闘において電測射撃が行えることはかなり優位だった。 ただ、初期の射撃用レーダーは測距性能は充実していたものの探知角が不足しており、時には光学観測射撃に後れを取ることもあった。 [ ] 他国より大型の戦艦に巨大な主砲を搭載するという文字どおりの大艦巨砲主義は、明け後には終焉した。 主砲口径の増大には歯止めがかかり、前代と同程度、あるいはやや小型化した主砲の採用例が多くなった。 これはの戦訓を元に、速力・防御力とのバランスの取れた戦艦の設計が重要視されたからである。 これ以前の戦艦は速度を、巡洋戦艦は防御力を妥協してを抑えていたが、そのような設計の問題点が明らかになった。 そこで速力も防御力もともに優れたポスト・ジュットランド艦(高速戦艦)が建造されたが、必然的に排水量も増え、主砲口径の増大を諦めざるを得なかった。 例外的に主砲口径を増大させた日本のは、排水量を抑えるための過度の集中防御と速力不足を問題視する見解もある。 航空機の発達と実績により中に航空機の優位が確立、の台頭が戦艦時代の終わりを告げる事となり、大和型(72,800 t 45口径46 cm 9門)と同等の(71,922 t 50口径16インチ砲 12門)全5隻がに建造中止された事をもって大艦巨砲主義は終焉を迎え、その後竣工したややなどもそれ以前に起工したものであり、以後戦艦の新造は行われていない。 賛否の意見 [ ] 大艦巨砲主義に関し、において日本海軍が米海軍と異なり、大艦巨砲主義に拘束され航空優位思想に転換できなかったという批判があるが、大艦巨砲主義や航空優位思想の意味は多義的なもので検証に耐えるものではなく、決戦に備えて戦艦を使用しなかったという語りも、事実は、或いは使用され或いは使用されようとし或いは戦艦としては見捨てられて使用されなかったのであり、機動部隊の建制化も重要な意味を持たない上に、アメリカ海軍が高速空母部隊を創設した時期は日本海軍も聯合機動部隊の発令をした時期であり、この批判はであるとする意見もある。 ただし、航空主兵論者の海軍中佐によれば、当時の日本海軍の航空主兵論者による大艦巨砲主義への批判は、日本海軍において、ほぼ使用されなかった戦艦に予算・機材が使用され、主力となった航空に十分に回らず、大艦巨砲主義の下で戦艦は何もしないことで航空部隊の行動の妨害になっていたことに対してである。 戦後、日本海軍の出身の大艦巨砲主義者は次のように語っている。 中将は「多年戦艦中心の艦隊に没頭してきた私の頭は転換できず、がに偉効を奏したのちもなお、機動部隊は補助作業に任ずべきもので、決戦兵力は依然、大艦巨砲を中心とすべきものと考えていた」と反省を語っている。 大佐は、大艦巨砲が航空主兵に敗れてなお「戦前の想定どおり、砲撃主体の艦隊決戦を挑むべきであった」と生涯主張し続けた。 [ ] 戦後、大艦巨砲主義に反対していた日本海軍の航空主兵論者たちは次のように語っている。 大佐は、海軍が大艦巨砲主義から航空へ切り替えられなかったのはでの犠牲を嫌う職業意識の強さが原因だったと指摘する。 「大砲がなかったら自分たちはするしかない。 多分そういうことでしょう。 思想を変えるということは、単にの構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるとことになるわけですから。 人情に脆くて波風が立つのを嫌うのでは、なかなか難しいことです」と語っている。 中佐は、戦艦無用論も含むは戦前極端とも見られたが、太平洋戦争の経過がその見通しがほぼ正しかったことを証明したとして、特に航空関係者が嘆いていたのは、大艦巨砲主義の下で作られる戦艦の建造費、維持費など莫大な経費が浪費される割にほぼ戦局に寄与しないことであり、それを航空に回せばより強力なものができると考えていたと語っている。 歴史 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2019年5月) 大砲技術が発達しでが可能になると、舷側に穴を空けて多数の艦砲を並べると被害を受けやすくなった。 そのため砲数を減らし、一門あたりの威力を高め、敵艦砲に耐える装甲を施す事となり、の時代となった。 技術開発が進み、砲の大きさ(口径・口径長)が威力と比例するようになった。 から装甲艦への移行期には小型化が見られたものの、大砲・動力・技術の進歩に従って軍艦は巨大化していった。そして木製艦体に装甲を施した装甲艦から、艦体自体を鉄鋼製とした艦へと移行、大型の艦体と搭載砲を持つ戦艦と、小型のなどを目的とする巡洋艦へと分岐した。 1905年から1945年までに建造された戦艦の排水量グラフ。 のサイズやパワーは第一次世界大戦をはさんで急速に増大した。 多くの海軍国によるは1922年のでいったん終わりを迎えた 近代戦艦の始祖とされるのはである。 なお、から順次竣工したが、30. 5 cm砲4門の主砲を搭載、そしてその砲の威力に対応する装甲を持つ、の基本形を確立した。 しばらくは各国ともこの様式で戦艦を建造したが、にで完成した「」によって主砲4門の枠が外された。 この艦は従来の戦艦に比べて飛躍的に向上した攻撃力と機動力を有し、建造中の戦艦をも一気に旧式にするほどの衝撃を与えた。 そのためこれ以後世界の海軍は「ドレッドノート」を基準とし、これらをと称する。 そしての登場によって、30. 5 cmという主砲口径の枠も外され、戦艦の攻撃力は主砲の大きさで決まる時代となった。 敵艦より大きな主砲を備え、敵弾に耐えられる厚いを備えた戦艦がでは有利である。 その結果、戦艦とそれに搭載される主砲は急速に巨大化し、また数量で他国に負けないために大量建造が行われた。 その他の理由によって、前代より排水量・主砲が小型化する場合もあった巡洋艦とは対照的に、戦艦はひたすら大型化の一途をたどった。 日英独は戦艦と同じ巨砲を持つも建造し、中には大和型の25年も前に世界初の18インチ砲搭載艦となった「」等がある。 のジェットランド海戦でイギリスとドイツが弩級戦艦・超弩級戦艦を含む艦隊で衝突し、砲撃戦の重要性が再認識されたことで各国の大艦巨砲主義は一層強まり 、 [ ]日本では、日露戦争後の1906年からまでは戦艦が海軍力の主力として最重要視され、各国は巨砲を装備した新鋭戦艦の建造競争を展開。 「主力艦」たる戦艦部隊同士の砲撃戦によってひいては戦争そのものの勝敗が決まるとされ、やなどの戦艦以外の艦艇は主力艦の「補助艦」とされた。 戦艦を保有できない中小国の海軍でも、限定的な航続距離・速力のと呼ばれる艦を建造し、戦艦に近い能力を持とうとした例も多く見られた。 この時期には戦艦は戦略兵器であり、他国より強力な戦艦は国威を示すものだった。 「」の16インチ砲 戦艦の建造競争はのにおける締結により一旦中断()したが、のワシントン条約が失効すると、建艦競争が再開された。 しかし、主砲を巨大にする大艦巨砲主義は衰退し、速力と防御力のバランスが重視され、主砲口径も従来か従来以下のサイズにとどまったが、日本だけ例外であり、戦艦史上最大の46センチ主砲の64,000t級(「」「」)を建造した。 [ ] 大和型は6万トンを超す大艦であり、45口径46cm砲という巨砲を備えた大艦巨砲主義の申し子だった。 戦艦との戦闘では優位に立てたはずの大和型も航空機には勝てず、「大和」「武蔵」ともにアメリカ海軍航空母の集中攻撃を受けて沈没した。 また大和型の他にも・を問わず多数の戦艦が航空機やの攻撃で沈没した。 さらに日本は大和型よりも大型の51cm砲を積むの建造を予定していた(戦中に計画中止)。 ただ、米英仏独ソも35,000トン級を凌駕する巨大戦艦の建造を計画はしている。 しかし、直後に始まった第二次世界大戦では海軍の主役の座は航空母艦に移った。 かつて想定されていたような戦艦同士の砲撃戦はほとんど発生せず、戦艦の役割はもっぱら対地砲撃、や輸送船団の護衛、あるいはなどとなった。 ワシントン条約期間中に建造されたフランス戦艦(竣工)以後、第二次世界大戦後までの9年間に建造された戦艦は27隻だった。 第二次世界大戦前または戦中に建造が開始され、大戦中にが4隻就役し、戦後に完成したイギリスの「」とフランスの「」を最後に新たな戦艦は建造されていない。 1941年12月、太平洋戦争が開始。 など緒戦の航空戦で、主役である戦艦を出す前の「」としての航空機が予想以上の戦果を出し、(長官は中将)はを半周するほど縦横無尽の活躍を見せた。 それによって航空戦力の評価が高まり、戦前から訴えられていたが勢いを増した。 1942年(昭和17年)4月28日及び29日、大和で行われた第一段作戦研究会で第一航空艦隊航空参謀中佐は大艦巨砲主義に執着する軍部を「はを造り、日本海軍は戦艦「」をつくり、共に笑いを後世に残した」と批判して一切を航空主兵に切り替えるように訴えた。 第二艦隊砲術参謀は大和の主砲射撃を見て1942年(昭和17年)5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。 的を得つつある」と残した。 海軍はそれでも大艦巨砲主義を捨て切れなかったが、での第一航空艦隊の壊滅により、思想転換は不十分だが航空戦力の価値が偉大と認め、航空優先の戦備方針を決定する。 しかし、方針、戦備のみで施策、実施などまで徹底していなかった。 ・力共に不十分な日本では航空と戦艦の両立は無理であり、艦艇整備を抑える必要があったがそこまで行うことができなかった。 は航空主兵に変更されたが、第一艦隊、第二艦隊は従来のままで、第三艦隊でを獲得してから戦艦主兵の戦闘を行う考えのままだった。 1943年(昭和18年)第三段計画発令で連合艦隊作戦要綱を制定発令し、航空主兵を目的とした兵術思想統一が行われた。 に第一艦隊が廃され、翌月にが創設されたことにより、ようやく大艦巨砲主義が終焉を迎え、が最重要視されることとなった。 その機動部隊と(陸上)航空兵力は、、、など戦いで全く戦果を挙げることなく大打撃を受けた。 レイテ沖海戦に参加した機動部隊にもはや攻撃力はなく、部隊として壊滅した。 同作戦でレイテ湾に突入するはずだった戦艦部隊は目的を達しないまま反転し、その過程で大和型戦艦「武蔵」がによってされた。 翌年4月には、沖縄に向かう大和がこれも航空攻撃によって撃沈され()、日本海軍は大艦巨砲と航空主兵双方がアメリカ海軍の航空主体の物量に敗れる形で終焉を迎えた。 なお、戦艦が最後に実戦で使われたのは1991年の。 「」と「」が出撃し、一定の戦果を挙げている。 出典 [ ]• 日本史広辞典編集委員会編『日本史広辞典』山川出版社、1997年10月22日 第一版第一刷発行 、1281頁。 日本造船学会編『日本造船技術百年史』日本造船学会、1997年5月、51頁。 Gardiner, Robert, ed. , The Eclipse of the Big Gun: The Warship, 1906—45. Conway's History of the Ship, London: Conway Maritime Press, 30 May 1992. , p. 奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』まえがき• 森雅雄「城西国際大学紀要 21 3 , 1-13, 2013-03• 奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』朝日ソノラマ344-347頁• 千早正隆ほか『日本海軍の功罪』プレジデント社263頁• 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社300頁、源田實『海軍航空隊、発進』文春文庫185頁• 奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』朝日ソノラマ344-347頁• 戦史叢書95海軍航空概史268頁• 淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』学研M文庫111-113頁• 戦史叢書95海軍航空概史268頁• 戦史叢書95海軍航空概史269-270頁• 戦史叢書95海軍航空概史348頁 関連項目 [ ]•

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大艦巨砲主義の何がアカンかったんや : あにちる速報

大艦 巨砲 主義

jcp. html 私有財産は認めてあげる。 差ができても認めてあげる。 でも資産を使って稼ごうとしたらその方法は没収。 つまり、資本家がもっている生産手段を、実際に生産を担う人々による共同の所有と管理・運営のもとへと移すことです。 「社会化」されるのは、生産手段だけであり、国民の財産(生活手段)をとりあげることはありません。 党の財産を増やします。 資本者から搾取するので、皆さんには関係ありません。 ってなるけど自分は最近、今の社会が供給過多になって無駄な労働を押し付けられてないか? って思うようになった。 例えば食料。 ロスがめちゃくちゃ多い。 必要な分+備蓄分だけで良いのに廃棄。 食料が人々の手に届くには多くの過程がある。 雇用主含む労働者も無駄な事で命削って無いだろうか。 欲望でさえ植付け合っている気がする。 コロナ渦なので特に感じた。 資源の乏しい日本の理想の姿は観光業だと思うんだけどコロナのせいでダメになった。 観光旅客飲食の人々は路頭に迷う人が増えていくんだろうと考えると跡継ぎのいない農家に住み込みで「強制で働いて貰う」っていう社会もありなのかもなと、思っている。 でも、社会主義の問題は新しいとみの取得方法を許さないから、新たな金(資産)を産むシステムを作れないこと。 ゼロサムの奪い合いをなくして、すべてに分配するのが共産主義としたら。 ゼロサムを継承しつつもバカ(富裕層)が新しい金ずるを作ってくれる(没収対象)ことを期待(正式な所得はどうぞ、稼いだらその方法部納税してね)する社会主義。 バカが出ないと途端に衰退。 ゼロサムはやってられないから、新しいもの作ったら権利を認める資本主義。 まあ、今ないなら補助くらいはしてやるよ(修正)。 ゼロサムやってるやつは頭おかしい、イケイケどんどん、奪えるなら奪え、パイ生地作るだけ作ってろ。 パイ食事0?無能なだけ。 新自由主義。 財政出動してもその財源を確保できるようになるまでどれだけかかるのかと。 MMTを言いたいわけ? 社会主義になれば解決するってこと? >ちゃんとした政権を作れれば、自由で教育費も医療費もただな社会ができるんだろうが これに対してのコメントにかみついた割には文脈無視してるよな。 ついでに言うと修正資本主義とグローバル資本主義は違うからね。 修正資本主義は富の再分配だから社会主義、 グローバル資本主義は新自由主義。 修正資本主義で警戒しないといけないのはどちらかと言うと社会主義者と共産主義者。 そもそも日本は社会主義でも資本主義でもなく修正資本主義ってコメントによくそこまでかみつけるよな。 修正資本主義サイコーって書いたわけでもないのにな。 阿保らしい。 というか、韓国や中国の侵略すら一昔前は、陰謀論で片づけちゃった教訓が有るからね。 在日特権なんか陰謀論のレッテル貼りされた挙句、差別とかいって反撃されたしな 笑 修正資本主義者とやらはよくわからんが、警戒心が無いんじゃなくて、意図的に言ってんじゃないの? あるいは、思考が誘導されているか。 根本の問題共有が出来てないかだね。 >ちゃんとした政権を作れれば、自由で教育費も医療費もただな社会ができるんだろうが 少子高齢化する今の日本でこれを実現するには増税が必要になる。 それに対して増税が必要ないというなら医療費、教育費無料を実現するにあたって何をするべきなの? これに対してどういうことだ?って逆にどういう事? だからさ俺が何に反発した。 そもそも今の国民健康保険もそうだけれど医療費、教育費無料を資本主義国家でするならそれはもう修正資本主義だから。 ただ無料までいくと財源ないから増税が必要。 中身のない返信すんなよ。 お前の返信から先に進む何かが何もない。 後、読解力ないから本を読め。 >ちゃんとした政権を作れれば、自由で教育費も医療費もただな社会ができるんだろうが 少子高齢化する今の日本でこれを実現するには増税が必要になる。 それに対して増税は嘘って返したよね。 なら医療費、教育費無料を実現するにあたって何をするべきなの? 財政出動?財源確保できるようになるまで時間かかるよね? MMT理論で国債発行しても自国通貨建てなら財政破綻しないから気にしなくていいって事? もしかして社会主義国家になればいいって事? どうすれば増税以外で財源を確保するの? 今の予算を削って医療費や教育費にあてるってのも違うって言ったよね。 緊縮脳って言われたから財政政策を支持してるのかな? でもMMTは否定してたよね。 財政出動だと財源確保まで時間がかかるしそもそもそこまで成長できるのかがわからない。 何をどうすればいいと考えてるんだろうか? 日本でも左翼活動家がよく行っていたらしいね。 「総括せよ!」とか言って毎回誰かを殺. すリンチ殺人。 なんとか赤軍の、あさま山荘事件で発覚した連続リンチ殺人がいい例だね。 山岳での軍事教練に集まる際、「革命3兄弟だ。 」なんて言ってた方も言われた方も殺されるなんてね。 結局、指導者となった者が権力を奪われたくないために、常に仲間を生贄にして粛清してただけ。 生贄に選ばれた者は、何も悪いことをしていないのに言いがかりをつけられて、一方的に殺される。 日本の過激派による連続リンチ殺人事件も、スターリンも、毛沢東も、やってることは全く同じだよ。 スターリンの粛清・虐殺も、毛沢東の粛清や文化大革命も、構図としては日本の過激派と全く同じ。 同じことをするのは、共産主義の本質だからだろうね。 共産主義下で生産手段や労働者は存在しても、それは資本主義とは言えない。 共産主義国では支配者が皇帝や王、貴族から共産主義者に代わるだけと捉えれば、 支配者が変わっただけとも発想し得るが、支配者は単なる管理者ではない。 国民が自主的に管理権を与えるのではなく、所有権を奪われるのだ。 共産主義国家が巨大な官僚機構になるのは事実だが、個人の所有権や 民間の生産活動を否定するのだから国家機構が肥大するのは当然の結果である。 官僚機構肥大化の点は中世の中国と似たような面もあるだろうが、同じではない。 同じなのであれば、共産主義には皇帝や貴族に相当する者がいるということだ。

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