俺 ガイル 14 巻 感想。 【俺ガイル】「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」第14巻感想 タイトルが回収されたという考察│Mangaism

俺ガイル14巻の感想@ついに三角関係に決着!ラノベ史上最高の恋愛青春物語でしょ!

俺 ガイル 14 巻 感想

さて…この記事のタイトルにはほんとは続きがあります。 タイトルそのものに愚痴と書いてしまうとそれだけでネタバレになるかもしれないしという気がしたのでボカしました。 なので、単なる愚痴です愚痴。 読了後12時間以上たった今もやっぱりどこか悶々とし続けているので、ちょっとだけなんかチラシの裏にでも書きたくなりました。 さて…。 当方、ガハマさんが好きです。 なので、結末に対する覚悟は読む前から決めていました。 ゆきのんを選ぶことに対して自体の不満は全くないです。 ただ、13巻のあのガハマさんの独白、 胸だけじゃない。 心だけじゃない。 全部、全部痛い。 の、着地点がここで良かったのかな…という。 多分、ここがなければ、14巻、発売日の0時に買ってなかったかな、と思うのですが、なんか、肩透かしじゃないけど、宙ぶらりんになっちゃったんですよね。 …なんか、あっさり終わっちゃったな、と。 無理じゃね?と。 別にビンタ合戦しろとまでは言わんけど、でもなんかそれに近い、2人と1人ではあるけれどもでも、それを超えて3人で進んでいけるんだという"よすが"が欲しかったなぁ…と。 いやまぁこいつらそもそも高校生だし、最後の文化祭で材木座あたりをこき使いながら文化祭でバンド組むかもしれんし(?)、いやまぁラブコメなんだし、と言ってしまえばそれまでなんだけど、「本物」とは何かというのを問い続けた最後かーうーむ…という感じ。 これなら、ガハマさん完全切り捨ての方が納得はできたかなと。 嫌だけど。 やっぱり、あの独白が頭にちらつく限り、今の状況では、なんかあまりにガハマさんに酷すぎる。 それで済む話なら、もっと簡単に終わってるんじゃないかと。 なんだろう、もっと切ながらせて欲しかったのかなぁ。 でもそんなドロドロしたの始めたところで、まぁうん叩かれるよね…。 多分、お呼びでないのだろう。 ペルソナ・ノン・グラータ。 まー多分自分の読解力のNASAが原因だと思うし、(小説読解は出来不出来が激しかった)、そもそもあの独白にここまで拘っている自分がおかしいのだろうと思う。 あれを読んだ瞬間、なんだろう、一緒にするなと各方面から怒られるかもだけど、「幸せの向こう側」も見せてくれるのかなと勝手に思ってしまったのかもしれないですね。 見たくはなかったけど、見届けたかった、のかな。 「あたしの全部が、痛いくらい、好きだって悲鳴を上げ」ていたのに、諦めたガハマさんと、14巻の描写から見ても、ガハマさんに対しても強い想いを持っていると思われる八幡とゆきのんが、それでもどうやって3人でいられるのか、もしくはいないのかを見届けたかったのかな…。 うーんわからなくなってきた。 シリーズ後編のガハマさんの悲痛な叫び、本当の本当に大好きだったんですよ。 今回も大好き。 むしろイチャイチャより好きまである…かもしれない。 だからこそ、こういう着地になるのなら、それらすべてを糧にして欲しかったという思いは多分あるのだと思います。 というか、ちょっとその他のInterludeも読み返したけどやっぱ天才だわ、わたりん。 俺ガイル最高でした!…とはまだちょっと言えないけれど、ガガガチャンネルで言ってたように、天才であることは否定しないww なにはともあれ、とりあえずは渡航先生お疲れさまでしたというところで。 というかまだ短編とかもあるのでしたね。 もしかすると、今回の愚痴は拙速だったのかもしれませんwww もうそうなったらヒッキーぐらいの重さで土下座(ヨガの一種)しますww.

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俺ガイルの最後は雪ノ下エンド?ラストの結末ネタバレまとめ

俺 ガイル 14 巻 感想

俺ガイルは八幡の成長物語だった 偽プロムの実現は、 八幡が誰のためでもなく、自分のための単なるわがままでやった ことというのは、終幕にふさわしい展開だったと思います。 俺ガイルがこれほどまでに人気を博したのは、主人公・比企谷八幡の 自己犠牲 がスマートに、かつ魅力的に描かれていたからです。 奉仕部の活動を通して、数々の依頼を解決(解消)する顛末がこれまで滔々と描かれてきたのですが、根本にあるのは 奉仕部(あるいは八幡個人)への依頼 なんですよね。 だからプロムの決着のつけかたは、 これまでの物語とは全く違う、八幡が自分に正直になって一歩を踏み出す展開になっていることが感慨深いのです。 正直、はじめは読みながら「は?」って思いましたが、読者にそう思わせる 彼らの間違いっぷりがこの作品の根幹だった のだと再認識しました。 陽乃・ははのんの描き方は賛否両論ありそうですが、あれだけ引っ張ると、何をやっても「あーいえばこういう」感じになりそうです。 個人的に、着地点としてはまあ仕方ないのかな、と思います。 そして、ここからとてもエモい展開になるわけですが、私にとって八幡の 「だからお前はそれまで待たなくていい」 が、作中屈指の名台詞でした。 このあとの告白のシーンより、巧いと思いましたね。 とはいえ八幡から告白したのは、本当によかった。 そのための前半の結衣との長い二人の時間だったし、八幡と雪乃の2人らしい面倒くさいやりとりでした。 また、この作品の重要なキーワード・・・ 「本物」。 その答えとしては妥当なものだったと思います。 ここに期待してしまった人は受け付けなかったでしょうが。 ・・・というか、作者も「本物」の風呂敷たたみは大変な思いだったでしょう。

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#1 俺ガイル14巻&全編を通しての感想&考察

俺 ガイル 14 巻 感想

言葉への批判意識 言葉一つじゃ足りねぇよ。 本音も建前も冗談も常套句も全部費やしたって、伝えきれる気がしない。 そんな単純な感情じゃない。 たった一言で伝えられる感情が含まれているのはまちがいない。 けれど、それを一つの枠に押し込めれば嘘になる。 (中略) こんな言葉でわかるわけない。 わからなくていい。 伝わらなくても構わない。 (渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 398より) この 言語への批判意識が、『俺ガイル』の 核心部分だと思います。 「自意識の化物」がたどり着く先は、 人間への不信、 言葉への批判、そして 「本物」の希求です。 疑り深い人は「言葉」の裏を読みたくなる。 しかしそれは、人の心理が透けて見えることの裏返しです。 そうするともう「うわべだけの馴れ合い」には耐えられない。 だからこの終わり方は、当然の帰結と言えば当然の帰結なのです。 ただここまでの筆致で、リアルな等身大で、絶妙な「青春ラブコメ」を書いた作品が他にあったでしょうか。 私はないと思います。 だから私は『俺ガイル』が本当に素晴らしい作品だと思っています。 今読み終わったところなので、何の策もなく一発書きなのですが、いまここで感じていることをメモさせてください。 「言葉」という殺害行為 言語化というのは、基本的に 殺害行為です。 ある感覚、ある感情を言葉にすると、 その感覚や感情はある意味死にます。 例えば、「犬のふわふわした温かみのある触感」と書いたとき、読み手はリアルな毛並みや体温を想像するでしょうが、そこにあった本当の犬の感触を言葉だけで完全に再現することはできません。 そのように、 本当にそこにあったはずのリアルな「感覚」というのは、言葉で完全に再現することは不可能です。 だから言葉はその意味で 「殺害行為」だと言えます。 他にも例えば、「彼と彼女は恋人だ」と言えば、聞き手は各々の想像する 「恋人」という概念にその二人をおしこめるでしょう。 「恋人」は「普通」デートをするとか、キスをするとか、そういう 「恋人」という言葉の枠に二人を当てはめようとするでしょう。 でも、実際には二人はもっと特殊な関係かもしれません。 「普通の恋人たち」のようにデートはしないかもしれない、キスもしないかもしれない、傍から見れば仲が悪く見えるかもしれない……そういう独自の関係性は、「恋人」という言葉に押し込めた途端に捨象されてしまいます。 関係を名付けてほしくなかった だから、『俺ガイル』では「普通に」告白してほしくなかった。 「普通の恋人」になってほしくなかった。 なぜなら、 『俺ガイル』で求められている「本物」というものは、言葉にできない関係性、言葉にしがたい関係性だと思っていたからです。 端的に言えば、いわゆる「誰々エンド」というのは 全くナンセンスだということです。 なぜなら「誰々エンド」という言葉で語れるくらいの関係が 「本物」のはずないからです。 八幡は絶対にそんな関係を選び取らないからです。 実際、彼らが得た関係はそんな 既存の言葉に簡単に当てはめることのできないものでした。 その証拠として、例えば一色に「お二人はどういう関係になるんですか」と聞かれたときに、「どう、なるんですかね……」、「こういうのは説明が難しいのだけれど……」と 雪乃と八幡が逡巡している場面が挙げられます。 これは照れ隠しなどでは決してなく、 言葉で説明できない関係性だということを2人も自覚していたからだと考えられます。 また、嬉しかったのは 由比ヶ浜もそのような2人の言葉にならない絶妙な関係を察知していたという点です。 由比ヶ浜はラストで「あたしの好きなひとにね、彼女 みたいな感じの人がいるんだけど」と、 「みたいな」と言っていて、彼らの関係が はっきりと「彼女」という言葉にできるものではないと察していると考えられます。 以上のように、 言葉に批判意識をもちながら、言葉にならない関係性を、「本物」を、彼ら彼女らが求めていたということを確認できた点が、最終巻で本当に良かったと思える点でした。 『俺ガイル』は共同体論である 私は『俺ガイル』は 共同体論だと思います。 人と人がどれほどの関係を結べるか、どこまで深く付き合えるか、人と人との間にどれほどの可能性があるのか、それを真摯に探究したのが『俺ガイル』だと思います。 だから、彼ら彼女らが最後まで彼らなりの「本物」を求めていたことが、私にとっては救いでした。 その点で、最終巻は本当に良かったです。 「舞台装置」 それに加えて良かったと思ったのは、陽乃の扱いです。 『俺ガイル』でずっとネックだな、と思っていたのは陽乃の扱いでした。 彼女だけが少し浮いていて、彼女だけがずっと 舞台装置っぽいなという感じがしていたからです。 「舞台装置」というのは、 陽乃が作品の都合のいいように「アンチテーゼ」として利用されていた感がすごかったということです。 じゃあどうすればよかったかというと、彼女の行動がもっと説得力のあるものだったら良かったわけです。 今までの彼女の行動は、違和感があり、そこまでするに足る背景を(明確に言葉にされなくとも)もっとなんとかうまく描けないものか……と思っていました。 人間味のある陽乃 この点で最終巻は良かったです。 というのは、ここにきてやって陽乃が舞台装置ではなく、 一人の人間として機能していたと思ったからです。 「ちゃんと決着つけないと、ずっと燻るよ。 いつまでたっても終わらない。 わたしが二十年そうやって騙し騙しやってきたからよくわかる……。 そんな偽物みたいな人生を生きてきたの」 (渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 289より) このあたりに陽乃の 人間味が垣間見えていました。 でもまあ単純に人間味のあるところが描かれたから良かったというわけでもなく、むしろこれで陽乃の 「浅さ」が露呈したかな、という感じがしなくもありません。 というのは、これだけだと陽乃が 「うわべ」の代表格、あるいは 捻じ曲がったシスコンというだけになってしまうからです。 陽乃=「うわべ」の代表・捻じ曲がったシスコン 1. 「うわべ」の代表 「うわべ」の代表格というのは、 『俺ガイル』において陽乃は強化外骨格みたいな「うわべ」を駆使して、「うまくやって」生きてきた人間の代表として描かれているということです(ただもちろん彼女には「裏の顔」もあってそれゆえに彼女は苦悩しているわけですが)。 話全体の構造的には、彼女を「本物」を求める奉仕部の面々のアンチテーゼとして置きながら、「本物」の側を刺激する役割を果たすわけですが、もう少し彼女の背景が描かれないと説得力に欠け、ただの「舞台装置」になってしまいます。 かといってこれ以上本編で彼女を掘り下げるのもキツイので、これが限界なのかなあと思う側面もあります……。 ここらへんは難しいです。 捻じ曲がったシスコン 「捻じ曲がったシスコン」というのは、陽乃が雪乃のためにわざと嫌がるような行動をとり続けているという読み(解釈)のことです。 この解釈では、陽乃には、自分の通る道を綺麗にたどる雪乃を本当にかわいいと思いながらも、 彼女に違う道を歩んでほしいという願いがあった、と読むことができます。 あるいは、「うわべ」の人生しか選べない自分を自己批判し、 それとは違う「本物」を彼女も求めていて、その「本物」の夢を雪乃に託したと読むこともできます。 どちらかというと個人的には、 陽乃も「本物」を心の底で求めていた、そしてその実現を雪乃に託したという読みの方がしっくりくる気がします。 陽乃も「本物」を求めていた 陽乃も「本物」を求めていた、と言えば聞こえはいいのですが、やっぱりどうしても傍から見ると、大学生なのに高校生にちょっかいをかける性悪なお姉さんに見えてしまうのですよね…… なんというか、ここらへんは見てくれが「感傷マゾを求めるオタク」と似ていると思います。 「うわべ」の青春を後悔した自意識過剰オタクが、「本物」をフィクションに求める、みたいな……。 厳密には違うとは思いますが、14巻は良かったかなと思いつつ、なんとなく不満は残るような気がしています。 陽乃についてはまだまだ考察する余地が残されていると思うので、今後もう少しちゃんと読み込んでいきたいです。 ただそれでも、陽乃と雪乃が扉絵で仲良く並んでいる姿は純粋に胸を打ちました。 「雪ノ下雪乃の救済」というテーマ 雪ノ下雪乃の救済というのが後期『俺ガイル』のテーマでした。 「救済」というのは、9巻で 「いつか、私を助けてね」という雪乃のセリフに起因しています。 「いつか、私を助けてね」とはどういうことか そもそも「助けて」とはどういうことかというと、 依存してしまう自立できない私を助けてねということです。 雪乃が依存体質であることは13巻でも陽乃から指摘がありましたが、1巻から雪乃はそのような面を見せていました。 というより、それこそが 雪乃が奉仕部を創った理由だと考えられます。 雪乃が奉仕部を創った理由 そもそもなんで雪乃が奉仕部を創ったかというと、 依存せず自立したいからだと考えられます。 ただそれはいわば隠された理由(はっきりと書かれてはいない理由)であって、彼女が言葉で言っている理由は違います。 彼女が口で言っていた理由は、「持っているもの」が損をする世界はおかしいから、 「変えるのよ、人ごと、この世界を」というものでした。 ではどういうふうに変えるかというと、 魚の獲り方が分からない人=自立できていない人に、 「魚の獲り方を教える」というやり方で「自立」をうながすのでした。 つまりみんなが 「自立」して、皆が 「持っているもの」に近くなる世界を目指していたわけです。 ただそれは、 雪乃がある意味で「持っていない」ことの裏返しだと考えられます。 たしかに雪乃はなんでもできます。 勉強もスポーツも、容姿も端麗。 しかし、それは 「依存」の延長線上として得てきたものです。 というのはそれらは 誰かに与えられたものを完璧にやり遂げて得たものにすぎないからです。 この点で雪乃は「自立」できていないと言えます。 だからこそ雪乃は奉仕部を立ち上げたのえはないでしょうか。 つまり、 人に「自立」をうながしながら、本当に「自立」したかったのは自分だったのではないでしょうか。 人に救いの手を差し伸べておきながら、本当に救われたかったのは雪乃自身だったのではないかと考えられます。 おそらく、生まれてからずっとなんでも完璧にこなしてきた雪乃は、それでも常に自分の上をいって何でもそつなくこなす 陽乃に コンプレックスを抱いていたのでしょう。 というよりも、 陽乃に自分のアイデンティティを奪われてきた(消されてきた)という言い方の方が正確かもしれません。 完璧にやる陽乃がいる、親から必要とされているのは陽乃だ、では自分(雪乃)の居場所はどこにあるのか……と、雪乃はそう考えていたのではないでしょうか。 そうして彼女は 「なんで私はそれを持っていないんだろうって、持っていない自分に失望」した。 だから、「別のものが欲しかった」。 そして雪乃は奉仕部を創った。 姉が持っておらず、自分だけが持っている、 雪乃自身のアイデンティティ、それが 奉仕部だったのではないでしょうか。 そのように奉仕部は、 雪乃が自立してできるのだということを示す証のようなものだったと考えられます。 救済は果たされたか? だから、 雪乃が最後に救済されるのか? ということが『俺ガイル』の1つの大きなテーマでした。 雪ノ下雪乃は「自立」という奉仕部設立当初の目的を達成出来たのか、それが1つの大きなテーマだったわけです。 では14巻で雪乃は「救われた」でしょうか? 私は 救われたと思います。 というのは、 雪乃は彼女の意志で父親の仕事を手伝いたいということを伝えたし、また、 八幡を選ぶという選択もしたからです。 父親の仕事を手伝うというのは、一見陽乃の後追いのようにも思えますが、これは 雪乃の意志だと解釈してよいのではないでしょうか。 というのは別に誰にそうなれと言われたのでもなく、彼女自身が言ったことだからです。 それよりも、「わからない」といっていた雪乃が八幡を自分で選択し、そのことを由比ヶ浜にきちんと自ら打ち明けたことは、 明確な「自立」(誰から与えられたわけでない主体的な選択)と言ってもよいのではないでしょうか。 これも一見すると、雪乃が八幡への依存を深めたように見えるのですが、「ちゃんと言うわ」と自ら気持ちを口にする選択は、依存ではないでしょう。 以上のことから、雪ノ下雪乃の救済という大きなテーマは果たされたと、今のところ私は考えています。 <追記>ここの読みは甘かったと思います。 雪乃は一時的に「救われた」に過ぎないというのが今の読みです。 詳しくは以下のツイートをご覧ください(スレッド方式で埋め込まれるのでガタガタになって読みにくいのですが、小さいサイズで埋め込まれているものも含めて順番に読んでいただきたいです)。 相変わらず俺ガイルの感想を見たり聞いたりしているのですが、14巻で八幡が本物を見つけたという解釈は、私の解釈から言うと絶対に違うのではないかなと思いました。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail 私は「本物」は、そこに究極的に近づくことはできても原理的には到達不可能なものだと思っていて、八幡が最後にたどり着いた雪乃との関係性は、あくまで「本物」までの一過程にすぎないと考えています。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail 大事なのはむしろその後で、その人生を分け合った関係性で、果たして「本物」に近づけるのかということ。 場合によってはその関係性は、人生を歪められた挙句他者に依存してしまう、まさに「共依存」のような関係へと堕ちてしまうこともあるだろう。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail だから自分は俺ガイルの結末を決して楽観視できないし、それが本当の「青春」だとも思えない。 それが青春の答えだとは言いきれない。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail では彼らがその問題をどう回避したかと言うと、言ってしまえば単に平塚先生に背中を押してもらっただけだ。 「君と雪ノ下はそんな関係性(共依存)ではないと思うよ」というたった一言で。 もちろんそういう気持ちは「本物」を求めるためには不可欠なのだが、考えようによってはそれは回避でしかない。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail そういう意味で八幡と陽乃はすごく表裏一体だ。 ともすれば八幡は陽乃のようになりえるし、ともすれば陽乃は八幡のようになる可能性があったかもしれない……。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail だから僕はある意味絶望した。 自分には何もないと気づいたから。 だから別のものが欲しかったんだと思う。 ありもしない、あるかどうかもわからない、「青春」の続きが。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail 「本物」なんて、あるのだろうか。 終わりの始まり もしも言葉がなかったら、私たちはどういう存在になっているのだろうか。 言葉のおかげで私たちは、現にあるような存在になっている。 言葉だけが、限界で、もはや言葉が通用しなくなる至高の瞬間を明示するのである。 (ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』酒井健 訳 ちくま学芸文庫,2004 p. 470) 『俺ガイル』はこれに非常に近いところまでいったと思います。 上に引用したところはジョルジュ・バタイユというフランスの思想家の思想の非常に重要な箇所なのですが、この言葉による「至高の瞬間」への接近に類似したことを『俺ガイル』は行おうとしていたなと思っています。 言葉は無力です。 言葉には限界があります。 しかし 言葉はそれが表現しようとするところに究極まで近づき、その当のものを指し示すことができます。 そこに言葉の力があります。 『俺ガイル』が「本物」という言葉で語ろうとしていたことは、そのようなものなのではないでしょうか。 青春は終わりましたが考察は終わりません。 今回は抑えきれない衝動により急いで書いたので、荒も多いですが、ご容赦頂ければ幸いです。 また時間があるときにきちんとした論考を書きます。 それから1巻ずつの考察も、まだ8巻までしか行ってないので、きちんと最終巻まで仕上げたいです。 今人生が絶賛修羅場中なので、もう少しお待ちいただけたらと思います。

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