珍 かすが たまる。 東京

#2 BASARAメンバーがホラゲーをプレーするそうですpart2

珍 かすが たまる

追悼…星になった声優達 追悼…星になった声優達2 ここでは声優を経験した 声優が本業ではない故人を紹介しています。 意外な方が意外な役をやっているのを見つけて故人を偲んでください。 本業が俳優でも声優経験が豊富な方は声優コーナーで紹介しています。 古い方の情報が不足しています。 お持ちの方は またはフリー掲示板へ。 当コーナーは誤った情報を提供、指摘する方が多くいらっしゃいます。 情報提供の際には出来るだけメールアドレスを記入してください。 最終更新時に新規追加及び内容が追記、訂正された人物は黄色で表示されます。 享年80(満78歳没)。 本業は女優。 夫は歴史小説家の小松重男。 享年82(満80歳没)。 声優にはじまり映画やラジオ、バラエティ番組など多岐に渡って活躍したマルチタレント。 68歳。 本業は舞台女優。 享年75 満74歳没。 作家・作詞家・放送作家・タレント・東京都知事と多岐で活躍。 ドラマ「意地悪ばあさん」の主演も有名。 享年32 満30歳没。 本業は歌手。 テレビアニメ「グラップラー刃牙」の主題歌4曲を担当した。 享年95 満94歳没。 「渡る世間は鬼ばかり」の姑役や「3年B組金八先生」の校長役で知られる女優。 享年88歳。 本業は俳優。 享年72歳。 ギャグの神様と称される漫画家。 2002年より脳内出血で倒れ療養中だったが、晩年の数年間は意識を取り戻すことはなかった。 享年47 満46歳没。 「ウゴウゴルーガ」に代表されるCGアニメ等を数多く手がけると同時に、音楽活動も主催。 享年72(満71歳没)。 独特の語り口調でナレーターを担当。 「水戸黄門」、「必殺シリーズ」等のテレビドラマに欠かせない存在だった。 享年61歳。 本業は俳優。 82歳没。 孫悟空) 2004年4月7日、うっ血性心不全により死亡。 享年74 満72歳没。 本業は喜劇俳優で、ドラマ「裸の大将」シリーズでの山下清役で人気を博した。 享年53 満52歳没。 本業は俳優、コメディアン。 次男、三男はそれぞれタレントの東貴博、東朋宏。 享年85歳。 本業は女優。 享年77 満76歳没)。 本業は俳優。 享年70(満69歳没。 翌日、仕事先に姿を現さなかった為、スタッフが自宅を訪ねるとベットで息を引き取っていた。 享年83(満82歳没)。 本業はタレント、作家。 元暴力団員。 作家での代表作に「塀の中の懲りない面々」がある。 享年77 76歳没。 本業は俳優で任侠映画などで悪役を多数演じた。 享年73 満71歳没。 元朝日放送 ABC アナウンサー。 享年70 満69歳没。 本業は俳優。 享年79 満78歳没。 本業は女優・歌手で、2000曲以上のコマーシャルソングを歌い、「CMソングの女王」と称された。 享年78(満77歳没。 「仮面ライダー」の死神博士で大人気を博した人物。 晩年は「平成教育委員会」にレギュラー出演。 享年84歳。 本業は女優。 国産初の着ぐるみによる人形劇「カエルのぼうけん」でケロヨン役を担当。 ケロヨンの「バハハ〜イ」は流行語になった。 享年73(満71歳没。 本業はコメディアン、俳優。 コメディ路線移行後の「ザ・ドリフターズ」初期のメンバーとして1974年まで活躍。 享年60 満59歳没。 1970年代から80年初頭まで活躍した大相撲力士。 引退後はタレントに転向した。 享年70歳。 本業は女優。 旧芸名は深沢英子。 享年67 満66歳没。 本業は俳優。 享年68 満67歳没。 本業は舞台劇伴作曲家。 舞台俳優。 享年72 満71歳没。 デンマーク人とのハーフで、外人タレントの草分け的存在の一人。 弟は俳優の故・岡田眞澄。 享年37 満36歳没)。 12月24日に自宅マンションで死亡しているのを親戚により発見された。 AV女優を経てテレビタレントとしてブレイクした数少ない成功例。 享年77 満75歳没。 本業は劇団昴所属の俳優。 享年85歳。 本業は俳優で、テレビドラマや舞台に多く出演した。 享年67 満66歳没。 本業は俳優で「スーパーロボット レッドバロン」など特撮で悪役として活躍した。 享年72歳。 「ザ・ドリフターズ」のリーダーとして一世を風靡したコメディアン。 「8時だヨ!全員集合」は50%もの視聴率を叩き出した。 ミュージシャン、俳優としての印象も強い。 享年76歳。 本業は女優で、和服の似合う上品な美貌の持ち主で1960年代から1980年代まで、テレビドラマの女王として君臨した。 享年37(満36歳没。 「remote」のボーカルで活躍。 バンド解散後は主に心霊研究家としてテレビに出演していた。 享年71 満69歳没。 本業は俳優。 享年87。 本業は俳優。 長男は脚本家の池田太郎。 本業は歌手。 戦前、戦中にかけて活躍し、数多くの童謡や軍歌を代表曲として遺した。 享年80 満79歳没。 本業は歌手。 「ど根性ガエル」や「パーマン」などアニメの主題歌でも知られ、「オバケのQ太郎」ではレコード大賞童謡賞を受賞している。 享年62歳。 本業は俳優。 享年61 満60歳没。 「サイボーグ009」「仮面ライダー」等、日本の漫画家に於いて映像化作品が最も多い巨匠。 享年86 満85歳没。 本業は俳優。 空手有段者でもある。 享年52歳。 昭和を代表する日本のトップスターであり歌手。 享年36 満35歳没)。 享年64歳。 本業は俳優、映画監督。 享年79 満77歳没。 本業は女優で、戦前から昭和末期に掛けて映画やドラマで活躍した。 バルブラン(ちびっ子レミと名犬カピ)おばあちゃん(ミヨリの森)ヘレナ(サイボーグ009 怪獣戦争)メイの祖母(あらしのよるに) 2019年1月12日13時31分、心不全のため死亡。 享年84 満82歳没。 本業は女優で、「家政婦は見た!」の石橋秋子役を25年間務めた。 享年64(満62歳没)。 本業は俳優。 享年91(満90歳没)。 本業は講談師。 3代目江戸家猫八、4代目三遊亭金馬とともにコメディ番組「お笑い三人組」で人気を博す。 後に政界にも進出。 享年83歳 満82歳没。 本業は俳優。 45歳没。 本業は手品師。 シンクレア 銀河英雄伝説 ガニマール三世 ルパン三世 第1シリーズ 2代目手塚先生 ふしぎなメルモ 2019年7月7日、食道癌のため死亡。 享年88(満87歳没。 本業は俳優。 享年23 満21歳没。 兄は俳優の伊藤淳史。 享年89(満88歳没)。 本業は俳優。 享年87 満85歳没。 本業は俳優。 享年59歳。 洋画の吹き替え等の声優としても活躍したが、本業は舞台俳優。 亡くなる直前も舞台「放浪記」に出演する予定だった。 享年58 満56歳没。 本業は俳優。 舞台を中心に活躍し、「劇団カクスコ」創立に携わった。 享年70。 本業はミュージシャン。 小野ヤスシらとコミックバンド「ドンキーカルテット」を組み、活躍した。 享年70 満68歳没。 本業は俳優。 享年69 満67歳没。 今くるよとのコンビで漫才ブームの一翼を担った。 享年83 満81歳没。 女優の他、声優として洋画の吹き替えも数多く務めた。 享年85 満84歳没。 本業は落語家。 1970年に9代目入船亭扇橋を襲名。 享年69(満68歳没)。 本業は俳優。 享年55歳。 元祖デブタレントとしても有名。 享年71(69歳没)。 本業は戦前から活躍した俳優。 享年69 満68歳没。 「仮面ライダー」の地獄大使役を筆頭に特撮でも活躍した。 享年51歳。 9月19日に遺体となって発見された。 「クレヨンしんちゃん」の原作で知られる漫画家。 享年92 満91歳没。 本業は俳優で数多くの時代劇、サスペンスに出演した他、声優として洋画の吹き替えも多数担当した。 享年61 満60歳没。 本業は俳優。 ヒット曲「ハチのムサシは死んだのさ」の作詞でも知られる。 享年71(満70歳没。 本業は歌手。 歌謡グループ「クールファイブ」のメインボーカルとして有名。 享年84歳。 紙芝居実演家として活躍していた。 享年73歳。 劇団民藝創立メンバーの一人。 享年89 満88歳没。 本業は俳優。 享年82 満81歳没。 本業の俳優に加え、タレント、料理家、実業家としても活躍。 娘はモデル・タレントの梅宮アンナ。 享年70 満68歳没。 本業は俳優。 石原プロの「大都会」や「西部警察」シリーズの悪役 で知られる。 「マルサの女」「翔ぶが如く」等にも出演。 享年81 満80歳没。 本業は物真似師、俳優。 江戸家猫八の三代目で、動物の声帯模写を得意とした。 享年68歳 満66歳没。 本業は物真似師、タレント。 江戸家猫八の四代目で、動物の声帯模写や1991年から10年間ゲーム番組の司会で親しまれた。 )海老一染太郎 半熟英雄対3D 2002年2月2日、胃癌のため死亡。 享年71(満70歳没)。 本業は太神楽師。 弟の海老一染之助と共にコンビを組み、テレビ等で太神楽を披露し活躍した。 ) 海老一染之助 半熟英雄対3D 2017年12月6日11時31分、肺炎のため死亡。 享年84(満83歳没)。 本業は太神楽の曲芸師。 染太郎との「お染ブラザーズ」として活躍。 兄の死後もピンで活動していた。 享年74歳。 本業は芥川賞作家。 享年63(満61歳没)。 本業は俳優。 1970年代中頃から時代劇や刑事ドラマなどの悪役を数多く演じた。 享年74 満73歳没。 俳優、コメディアン、家庭菜園研究家と多くの肩書きを持つ。 本業は俳優で現代劇から時代劇の悪役まで幅広くこなした。 享年64歳。 本業は映画俳優で「七人の侍」「地獄変」「赤ひげ」「日本沈没」などに出演。 テレビドラマではNHK大河ドラマでも活躍した。 享年68 満66歳没。 名バイプレイヤーとして数々のドラマ、映画に出演。 死亡時も多くのレギュラーを抱えていた。 享年88 満87歳没)。 本業は俳優。 60年以上の長きに渡って舞台・テレビ・映画等ジャンルを問わず幅広く活躍した。 享年81歳。 本業は喜劇俳優、漫才師であり、京唄子とのコンビ「唄子・啓助」で人気を博した。 享年83 満82歳没。 名司会者として一世を風靡した元祖テレビタレント。 2005年以降は癌と闘病していた。 享年62歳。 女優として「男はつらいよ」のマドンナや「春日局」などの大河ドラマで活躍した。 晩年は病気療養のため芸能活動は休業状態だった。 享年75(歳74歳没)。 本業は俳優。 享年89歳。 本業はジャーナリスト。 享年71歳。 本業はジャーナリスト。 享年55 満53歳没。 青年座の俳優でドラマ、舞台で活躍。 享年72 満71歳没。 多くの演劇やドラマ、映画に出演した名俳優。 SFや漫画等に造詣が深く、書や水墨画も嗜んだ。 息子は俳優の緒形幹太と緒形直人。 享年72 満70歳没。 デンマーク人とのハーフの俳優。 ドラマ、映画、バラエティーと幅広く活躍。 享年32 満31歳没。 「太陽にほえろ!」のスコッチ刑事などで知られる俳優。 享年63 満62歳没。 本業は俳優。 ) 1999年3月27日、自宅で首吊り自殺。 享年37 満36歳没。 本業は俳優・歌手。 俳優としては「3年B組金八先生」の松浦悟役、「サラリーマン金太郎」の富岡修平などがある。 享年84 満83歳没。 本業は俳優、マルチタレント。 享年73(満72歳没)。 本業はコメディアン、タレント。 「ドンキーカルテット」のリーダーとして活躍した。 享年73歳。 本業は俳優。 享年58歳。 本業は俳優。 ウォルト・ディズニーやヘンリー・フォンダの吹き替えなどの声優としても活躍した。 「スパイ大作戦」のオープニングナレーションでも有名。 享年59(満58歳没)。 享年50歳。 本業は小説家、放送作家。 「シャボン玉ホリデー」「クイズダービー」「タモリ倶楽部」などを手がけた。 晩年は宗教に傾倒。 享年50歳。 本業はマンガ原作者・映画プロデューサー・小説家。 「高森朝雄」のペンネームも持つ。 代表作は「巨人の星」「あしたのジョー」「タイガーマスク」など。 本業は俳優。 劇団民藝。 劇団青俳。 享年53 満52歳没。 春日三球・照代という夫婦漫才コンビで有名だった。 享年83 満81歳没。 本業は落語家。 「笑点」放送開始から50年間大喜利メンバー、司会として出演。 同番組永世名誉司会者。 享年74歳。 落語家。 1992年に5代目桂文枝を襲名。 享年91(満89歳没)。 昭和22年に落語家3代目桂米朝を襲名。 戦後凋落していた上方落語の復興と継承に貢献。 平成8年に人間国宝に認定された。 享年45(満43歳没)。 本業は落語家。 享年84 満83歳没。 戦前の流行歌歌手。 享年81 満80歳没。 本業は俳優。 TBS時代劇「大岡越前」では足掛け36年間に渡り主演を務めた。 享年87 満86歳没。 本業は俳優。 享年94 満92歳没。 本業は女優で数多くのドラマに出演した。 ラジオ番組として始まった紅白歌合戦第1回の紅組司会者を務めた。 享年82 満80歳没。 本業は漫画家。 1954年から毎日新聞夕刊で連載された「まっぴら君」で有名。 テレビ司会等も人気を博した。 享年74歳。 様々な映画やドラマで活躍。 ゲームソフト「街」ではオタク刑事の上司を演じた。 享年71 満69歳没。 本業は俳優、ナレーター。 享年80歳。 本業は俳優。 恰幅よく豪快なイメージで、気のいいお父さん&お爺さんから時代劇の悪役まで、幅広い役柄を担当した。 享年79 満78歳没。 本業はミュージシャン。 ムッシュかまやつ名義で活動した。 享年47 満45歳没。 本業は漫画家。 「同棲時代」、「修羅雪姫」などのヒット作を世に送り出した。 享年87 満85歳没。 俳優座の俳優で半世紀にも渡り活動。 享年63(満61歳没)。 享年75 満74歳没。 時代劇では悪代官役を数多く演じたベテラン俳優。 洋画吹替ではポール・ニューマンの声を担当。 享年92歳。 本業は女優だがアニメや洋画の吹き替えでも活躍した。 声優・関俊彦の最初の師匠でもある。 享年55 満54歳没。 本業は俳優。 アクの強い名バイプレイヤーとして活躍した。 長女は女優の仁科扶紀。 長男は俳優の仁科貴。 享年79歳。 本業は能楽師。 俳優・演出家など幅広く活躍。 コーヒーのCMで「違いがわかる男」のフレーズで話題に。 享年46 満44歳没。 本業は俳優だが、元落語家 3代目林家染之助 という異色の経歴の持ち主。 享年24歳。 代表作に 舞台「セーラームーン」の3代目月野うさぎ役、「仮面ライダー響鬼」のヒロインの立花日菜佳役など。 享年70(満69歳没。 本業は女優。 享年76 満75歳没。 唯一無二の個性派俳優としてドラマや映画、CMで活躍した。 夫はロックミュージシャンの内田裕也。 享年73 満71歳没。 本業は俳優。 享年78(満77歳没)。 本業は医師、評論家。 享年74 満73歳没。 1959年に宝塚歌劇団に入団し、幅広い演技力を持つバイプレイヤーとして退団まで活躍した。 享年56 満54歳没)。 本業はコメディアン。 夫人は元タカラジェンヌの岸井あや子。 享年77 満76歳没。 個性派女優として数多くの作品に出演した他、独特の声と語り口を生かして、声優、ナレーターとしても活躍した。 享年44 満43歳没。 数多くのテレビドラマや映画に出演した昭和の名優。 特撮の脚本や、テレビCMの演出も手掛けた。 享年85歳。 本業は芥川賞作家で「どくとるマンボウ」シリーズで知られる。 享年98歳。 本業は女優で老婆役の第一人者だった。 劇団民藝創立メンバーの一人。 病院に収容されたが翌6日14時33分、骨盤骨折・腹部内出血で死亡。 享年61 満60歳没。 本業は女優。 享年81 満80歳没。 本業は俳優。 息子は同じく俳優の北村有起哉。 享年83(満82歳没)。 本業は俳優。 享年72 満71歳没)。 元プロ野球選手 広島カープ。 引退後は野球解説者やタレントとして活躍した。 享年85歳。 本業は俳優。 享年91 満89歳没。 本業は漫才師で、鳳啓介と漫才夫婦でコンビを組んでいた。 享年89歳。 喜劇女優の先駆けとして、数多くの映画に出演した。 享年40歳。 本業は俳優。 享年87 満86歳没。 本業は俳優だが、声優として洋画吹き替えも出演も数多い。 劇団四季の創設メンバーの一人。 享年56 満55歳没。 本業は浪曲師。 「クマのプー太郎」主題歌歌唱や「サクラ大戦 歌謡ショウ」雲国斎役等も。 享年84 満82歳没。 本業は俳優。 享年81歳。 本業は俳優でドラマ等で活躍した他、CMナレーションやゲイリー・クーパーの吹き替えなど声優としても活動。 享年62 満61歳没。 本業は俳優・演出家。 享年86 満85歳没。 本業はタレント、漫談家。 医療ネタに下ネタを織り交ぜた漫談で人気を博した。 スランプアラレちゃん ほよよ!ナナバ城の秘宝 1985年3月23日、肺不全の為東京都中央区の国立ガンセンターで 死亡。 享年54歳。 本業は俳優で代表作に「大都会PART II」の課長や「特捜最前線」など。 「刑事コロンボ」のコロンボ役の吹き替えとしても有名。 享年67 満66歳没。 本業は女優。 1954年公開の「ゴジラ」1作目ではヒロイン役に抜擢された。 享年63。 五代目古今亭志ん生の次男。 落語家で、俳優である実力者。 ふりかけ「錦松梅」のCMでお馴染みだった。 享年63(満62歳没)。 本業は歌手、俳優。 享年77歳。 「パネルクイズ アタック25」や多くのジャンルで活躍。 読書家としても知られる。 享年65歳。 「ウルトラマン」のムラマツ隊長、「西部警察PART II、III」の南長太郎 役、「仮面ライダー」シリーズや「仮面ノリダー」の立花藤兵衛役も有名。 亡くなる1ヶ月前から、闘病生活をしていた。 享年69 満68歳没。 本業は俳優で1961年公開の映画「潮来笠」では主演を務めた。 時代劇を中心に数々の映画やテレビドラマに出演する傍ら、洋画の吹き替えやアニメの声優も幅広くこなした。 享年86歳。 戦前から活躍した俳優で、画家の山下清存命中に「裸の大将」で清役を演じたこともある。 享年67 満66歳没)。 本業は女優。 享年36 満34歳没。 本業はフリーアナウンサーで「NEWS ZERO」等で活躍した。 十一代目市川海老蔵は夫。 享年81歳。 日本を代表するSF作家。 享年76歳。 主に悪役として多くの映画、テレビドラマに出演する傍ら、アンソニー・クインの吹き替えなど声優としても活躍した。 享年40 満39歳没。 本表は舞台女優。 享年77 満75歳没。 享年82歳。 本業は漫才師と元参議院議員で、漫才協団名誉会長を務めた。 享年48 満46歳没。 本業はアニメーション監督、漫画家。 晩年は末期の膵臓癌に冒され闘病していた。 享年64 満63歳没。 本業は歌手で、多くのヒット曲を持つ。 2003年以降脳梗塞で闘病しつつ も歌手活動も続けていた。 享年75(満73歳)。 本業は俳優。 東映キッズドラマ「ロボット8ちゃん」ではバラバラマン役を演じ、エンディングも歌っている。 享年67 満66歳没)。 本業は小説家、弁護士、検察官。 自身の著書「入門」シリーズは「六法やぶれクン」というタイトルでテレビアニメ化もされた。 享年56(満54歳没)。 本業はコメディアンで、「喜劇の神様」と称された昭和を代表する名喜劇俳優。 長男はコメディアン・司会者の堺正章。 享年92 満91歳没。 元NHKアナウンサー。 享年78(満76歳没)。 死因は脳幹出血。 享年62(満61歳没)。 本業は俳優で、ドラマ版「仮面の忍者 赤影」の赤影役で有名。 享年51(満50歳没。 浪曲師相模太郎の2代目。 享年43歳。 本業は俳優、歌手。 「上を向いて歩こう」、「見上げてごらん夜の星を」などの楽曲で知られる。 享年61歳。 本業は俳優。 後年は保護司としても活動。 吐血跡から病死とみられる。 享年59(満58歳没)。 本業は女優、喜劇役者。 「サンダーバード」ではジョン・トレーシー役を務めた。 死因は心臓破裂。 享年38(満37歳没)。 本業はお笑いタレントで、2005年に「スケバン恐子」 でブレイクした。 事故当日もコンサートの為熊本へ向かっている最中だった。 享年83 満81歳没。 本業は俳優・ナレーター。 享年81歳。 本業は俳優。 享年79 満78歳没。 本業は俳優。 享年83(満82歳没)。 元松竹新喜劇の俳優。 享年73 満72歳没。 本業は俳優で「鬼平犯科帳」をはじめとする時代劇を中心に活躍した。 享年101 満99歳没。 戦前に活躍した映画女優。 享年89 満88歳没。 本業は落語家。 1970年に3代目三遊亭圓歌を襲名。 享年75 満73歳没。 死因は不明。 本業は落語家。 1950年に4代目三遊亭小圓馬を襲名。 享年44 満43歳没。 本業は落語家。 1968年に4代目襲名。 「笑点」初代レギュラーで(一時降板)死の直前まで大喜利メンバーを務めた。 享年70(満68歳没)。 本業は落語家。 1954年に2代目三遊亭百生を襲名。 享年80(満79歳 没。 奇抜なヘアスタイルと眼鏡でバラエティーで人気だった他、多くの映画、ドラマに出演。 車から投げ出され全身打撲で即死。 享年21 満19歳没。 同年8月よりカリフォルニア州に留学中 だった。 享年95(満93歳没)。 江戸時代より続く狂言師茂山千作の4代目。 人間国宝。 享年85 満83歳没。 本業は舞台俳優。 享年45 満43歳没。 本業は声楽家。 東京マイスタージンガー元メンバー。 享年37歳。 「金田一少年の事件簿」等実写ドラマにも出演。 享年85 84歳没。 学習院大名誉教授。 「クイズダービー」の回答者として人気を博した。 難病ALSで長期闘病中だった。 享年59 満57歳没。 本業は歌手。 「マイ・ラグジュアリー・ナイト」などのヒット曲で知られる。 享年75 満74歳没。 本業は舞台俳優。 演出家。 享年73 満72歳没。 プロボクサーから吉本新喜劇へと異色の経歴を持つ。 享年76(満75歳没)。 ミリオンヒットを数多く記録した演歌界の大御所。 享年59 満58歳没。 享年51(満49歳没)。 タレントとして活動も、2007年9月に母親の介護を理由に引退していた。 享年90 満88歳没。 「男はつらいよ」の3代目おいちゃん役で知られる。 ) 2014年4月8日23時37分、誤嚥性肺炎のため横浜市中区の病院で死亡。 享年72 満71歳没。 本業は中華料理専門の料理人だが、テレビのバラエティ等でも人気を博した。 享年66 満64歳没。 本業はミュージシャン。 元プロボクサー。 満63歳没。 晩年は胃癌を患っていた。 享年80(満78歳没)。 本業は俳優。 享年93 満92歳没。 本業は女優。 必殺シリーズの中村せん役で知られる。 享年82(満81歳没。 東映の映画「仁義なき戦い」「トラック野郎」シリーズで説明不要の名優。 享年89(満88歳没)。 享年82歳。 本業は俳優。 ミュージシャンの鈴木慶一・博文兄弟の父。 享年85 満84歳没。 本業は俳優。 享年62 満60歳没。 ロックバンド「モップス」でデビューし、近年は脇役としてドラマでも活躍。 享年90(88歳没)。 本業は女優。 娘は女優の佐々木愛。 享年81(満80歳没)。 本業は俳優、演出家、劇作家(ペンネーム:渡辺鶴)。 劇団「道化座」三代目主宰。 享年66(満65歳。 本業は舞台俳優。 享年64(満63歳没)。 本業はジャズミュージシャン。 享年79(満78歳没。 本業は俳優。 1960年代から舞台劇で活躍し「アングラの帝王」と呼ばれ、映画やテレビドラマにも脇役として数多く出演した。 享年78歳。 本業は喜劇俳優で、映画「男はつらいよ」シリーズ等に出演した他、海外アニメで声優として活躍した。 享年61(満60歳没。 本業はコメディアン。 ポール牧と結成したお笑いコンビ「コント・ラッキー7」でブレイク。 享年78歳。 能楽師の故・観世寿夫氏の妻。 享年68(満66歳没。 本業は漫才師。 獅子てんやと組み、「獅子てんや・瀬戸わんや」として人気を博した。 享年75 満74歳没。 享年57 満55歳没。 1976年に大平サブローと組んだ漫才コンビ「太平サブロー・シロー」でデビューし人気を得た。 享年88(満87歳没。 沖縄芝居の中心的俳優で、「ちゅらさん」ではヒロインの祖母役を演じた。 享年87 満86歳没。 本業は俳優で多くの刑事ドラマや時代劇で活躍した。 享年90 満88歳没。 映画俳優、司会者として一時代を築いた。 芸能一家高島ファミリーの父。 享年62(満60歳没)。 声優としてデビューするが1964年に俳優に転向。 晩年の闘病の模様はテレビ等で取り上げられた。 享年85 満83歳没。 本業は俳優。 享年64歳。 アナウンサーとしてラジオ番組を中心に活躍。 「クイズ地球まるかじり」ではナレーターを務めた。 享年81 満80歳没。 講談師・宝井馬琴の6代目。 享年35(満34歳没。 本業は俳優。 「ミュージカル テニスの王子様」の大石秀一郎役など、舞台における活躍が多く見られた。 享年86 満84歳没。 本業は俳優。 声優としても洋画吹き替えで活躍した。 享年80 満79歳没。 本業は俳優。 76歳没。 戦前から俳優として活躍し、若いときから老け役を得意としていた。 享年46(満44歳没)。 プロボクサーの経歴を持つ人気お笑いタレントだった。 享年74歳。 本業は俳優。 「男はつらいよ」のたこ社長役で人気を博した。 本業は女優。 享年72歳。 戦前に舞台俳優としてデビュー後、さまざまな映画やドラマで活躍した。 享年70 満68歳没。 本業は俳優。 享年82 満81歳没。 本業は落語家。 1982年に8代目を襲名。 7代目立川談志、5代目三遊亭圓楽、3代目古今亭志ん朝と共に「落語四天王」と呼ばれた。 享年61歳。 本業は劇団青年座の俳優。 享年56 満55歳没。 本業は俳優、脚本家。 享年76 満75歳没。 落語家立川談志の七代目。 享年78 満76歳没。 「水戸黄門」の常連悪役の1人。 享年65 満63歳没。 本業は青年座所属の俳優で主に舞台で活躍した。 享年56 満54〜55歳。 本業はコメディアンで、森川信に師事した。 Fighters' NEXTream) 2010年6月30日。 享年50 満49歳没。 本業は俳優。 映画制作プロダクション銀影社エヴゼクティヴプロデューサー。 享年46 満44歳没。 本業は俳優で2時間ドラマの常連。 「刑事貴族」「温泉へ行こう」「ウルトラマンメビウス」等代表作も多数。 享年55歳。 解散後は女優として活躍。 92年に30代で乳癌が発覚してから闘病していた。 享年76(満74歳没)。 本業は俳優、コメディアン。 海外アニメ「ドラ猫大将」では大将役で主演した。 5時7分、東京都の杏林大学医学部付属病院で脳挫傷のため死亡。 享年79 満78歳没。 クレイジー・キャッツのひとり。 持ちネタの「ガチョーン」は広く知られる。 享年77(満76歳没)。 司会者としてテレビ・ラジオで活躍した。 享年69 満68歳没。 本業は浪曲師・コメディアン。 浪曲声帯模写で人気を博す一方で、東けんじと漫才コンビ「Wコント」を結成し活動した。 享年64 満63歳没。 本業は女優で、時代劇や舞台を中心に活躍した。 享年84歳。 俳優、霊界研究家として活躍。 代表作は「砂の器」「Gメン75」「大霊界」など。 享年44 満42歳没。 本業はコメディアン、俳優。 享年71 満70歳没。 本業は俳優で「太陽にほえろ」「北の国から」に出演。 晩年は「ちい散歩」がヒットし長寿番組化していた。 享年58 満57歳没。 本業はフジテレビアナウンサー、プロデューサー。 享年79 満78歳没。 本業は俳優、映画監督。 同年4月には妻の朝丘雪路に先立たれている。 兄は俳優の長門裕之。 享年64 満63歳没。 本業は俳優。 「帰ってきたウルトラマン」の加藤隊長役や、「仮面ライダースーパー1」の谷原次郎役で有名。 享年38 満37歳没。 円谷プロの一族出身の俳優。 宇宙刑事シャイダー等で知られる。 享年62歳。 青年座所属の舞台俳優なので、舞台がメインだが、テレビドラマへの出演や海外ドラマの吹き替えでも活躍した。 享年57 満56歳没。 双子姉妹デュオ・ドリーミングの妹。 享年43 満42歳没。 台湾人歌手。 日本を含むアジア各国で絶大な人気を誇り「アジアの歌姫」と称された。 享年88 満87歳没。 TBS「水戸黄門」の初代黄門役を13年間演じ人気を博した。 長男は俳優の東野英心。 享年59 満58歳没。 本業は俳優で「あばれはっちゃく」「中学生日記」が有名。 東野英治郎は実父。 享年39 満37歳没。 姉は歌手の戸川純。 享年82 満81歳没。 本業は俳優だが、代表作は1975年から19年に渡って放送された「まんが日本昔ばなし」である。 享年78 満77歳没。 戦前から弁士、漫談家、俳優として活動。 戦後も映画・ラジオ・テレビ番組への出演や執筆活動など多方面で活躍した。 享年49 満47歳没。 本業は漫画家で、代表作「ダッシュ!四駆郎」のアニメに本人役で出演した。 享年49 満48歳没。 本業は俳優。 享年80歳。 本業は女優。 享年80 満79歳没。 主に時代劇や特撮、刑事ドラマの悪役などで活躍した。 享年63 満61歳没。 本業は声楽家・バリトン歌手・詩人。 享年103 満102歳没。 享年32歳。 タレントの中川翔子の実父。 享年58 満57歳没)。 本業はオペラ歌手。 享年64歳。 本業は俳優。 享年75 満73歳没。 本業は俳優。 「水戸黄門」の風車の弥七役が有名で、1969年から体調不良で休演するまで約30年間に渡り演じた。 妻は女優の中村美苗。 享年78(満77歳没)。 昭和から平成にかけて活躍した名俳優。 妻は女優の故・南田洋子。 弟は俳優の津川雅彦。 享年82 満81歳没。 時代劇からコメディまで半世紀以上にわたり活躍した俳優。 享年49 満48歳没。 本業はアニメ・人形劇の監督・演出家・脚本家・作詞家。 享年78(満77歳没)。 「サインはV」の鬼コーチなどで知られる俳優。 享年72歳。 数々のドラマ、舞台に出演した名優として知られる。 享年91(満89歳没)。 本業は女優。 享年29歳。 本業は女優。 享年74 満73歳没。 本業は俳優で、多数の映画やドラマに出演。 前年11月に膵臓癌が見つ かったが、手術は受けず闘病中だった。 享年81歳。 本業は女優。 享年90 満89歳没)。 本業は俳優。 東京ドームシティアトラクションズ(旧後楽園ゆうえんち)の野外劇場およびスカイシアターで上演されていたヒーローショーで司会を務めていたことで知られる。 享年75 満74歳没。 本業は俳優。 映画や時代劇などにおける悪役の常連だった。 享年83歳。 本業は女優。 1976年に劇団昴に所属し、舞台を中心に活動した。 夫は俳優の内田稔。 享年78 満77歳没。 本業は俳優。 「宇宙刑事」シリーズのコム長官や時代劇の悪代官役で有名。 舞台・吹替え等多方面でも活躍した。 享年82 満81歳没。 本業は俳優で、青年劇場の創立メンバーの一人。 享年74歳。 本業は俳優。 TBS系時代劇「水戸黄門」で2代目黄門役を演じた他、数々のドラマや映画で主に悪役で活躍した。 享年77 満75歳没。 享年70 満69歳没。 本業は俳優。 享年79 満78歳没。 本業は舞台俳優。 シェークスピア劇専門の「劇団近代座」の設立者。 享年82 満81歳没。 本業は女優で数々の映画やドラマで存在感を示した他、バラエティ等でも活躍した。 享年78 満76歳没。 本業は俳優。 享年63(満62歳没)。 個性派俳優として知られた。 享年40歳。 享年77 満76歳没。 野球解説・評論家で元広島カープの投手、監督。 享年61歳。 本業は女優。 享年39(満37歳没)。 お笑いグループ「脱線トリオ」のメンバーの一人。 タレント・八波一起の父。 享年63歳。 コミックバンド「ハナ肇とクレージーキャッツ」のリーダーとして一世を風靡。 後年は俳優としても活躍。 ドリフターズ全員の芸名を付けたことでも知られる。 享年91 満89歳没。 50年近い芸歴を持つベテラン俳優。 享年70 満69歳没。 松竹芸能に所属していた浪曲漫才トリオ「フラワーショウ」のメンバーの一人。 享年65 満63歳没。 本業は舞台俳優・演出家。 死の一年半前に食道癌である事が判明していた。 本業は作曲家で、「タンスにゴン」「ミスタードーナツ」「こてっちゃん」等のCMソングが知られる。 享年72 満70歳没。 本業は俳優。 長女は女優・声優の林真里花。 享年85 満84歳没。 本業は女優。 夫は作家の中野重治。 享年72 満71歳没。 本業は俳優。 享年45 満44歳没。 本業は漫才師で、晴乃タックと組んで「晴乃チック・タック」というコンビで活動していた。 享年74 満73歳没)。 本業はコメディアン。 享年75 満74歳没。 本業はミュージシャン。 ピンキーとキラーズのドラマーとして知られた。 享年39 満38歳没。 本業はシンガーソングライター。 本業は舞台俳優。 享年81(満79歳没)。 本業は俳優。 洋画吹き替えも多数。 享年64 満63歳没。 1930〜50年代に映画やドラマで活躍。 洋画吹き替えも多く、「ララミー牧場」 主人公ジェス・ハーパー役が有名。 享年75 満74歳没。 本業は俳優。 ラジオパーソナリティー。 STVラジオの「日高晤郎ショー」は、逝去直前まで35年間パーソナリティを務めた。 享年82 満80歳没。 2017年6月に急性心筋梗塞で倒れ病気療養中だった。 享年78(満77歳没)。 本業は俳優、オペラ歌手。 死の前年に「老人と子供のポルカ」で歌手デューし、大ヒットを飛ばした。 享年84 満82歳没。 翌日、自宅の浴室で倒れていた所を長男の平岳大が発見。 警察により死亡が確認された。 ベテラン大物俳優で紫綬褒章も受賞した。 享年64(満62歳没)。 「オバケのQ太郎」「ドラえもん」「パーマン」などで説明不要の天才 漫画家。 享年57歳。 本業は俳優で 「西部警察 」の刑事・谷大作役など。 享年76歳。 本業は俳優で、15年演じ続けた「渡る世間は鬼ばかり」の岡倉大吉役をはじめ橋田壽賀子作品には欠かせない存在だった。 86歳没。 本業は俳優、演出家。 劇団京芸代表。 享年78(満76歳没)。 本業はコメディアン・俳優。 「てなもんや三度笠」でコメディアンとして人気を博し、「必殺シリーズ」の中村主水役、「はぐれ刑事純情派」の安浦刑事役で役者としても知られた。 享年84 満82歳没。 本業は俳優・タレント・振付師。 享年48歳。 本業は俳優。 享年62歳。 本業は数々の映画やドラマに出演する名バイプレーヤー。 享年65 満64歳没。 本業は女優。 享年67歳。 俳優、コメディアンとして映画「駅前シリーズ」やドラマ「私は貝になりたい」、クイズ「霊感ヤマカン第六感」で人気を博した。 享年45歳。 本業は俳優。 「金田一少年の事件簿」の剣持警部役などで知られる。 享年65(満63歳没)。 関武志とのお笑いコンビ「コント・ラッキー7」でブレイク。 自身の持ちネタである「指パッチン」は特に有名。 享年93(満92歳没)。 本業は芸人、俳優。 享年57(満56歳没。 本業は漫才師。 星ルイスと共に結成したお笑いコンビ「星セント・ルイス」によって人気を博した。 享年76 満74歳没。 加山雄三の主演映画「若大将」シリーズや怪獣映画で人気を博した女優。 享年58 満56歳没。 本業は漫才師。 死去の前年に相方の星セントも他界しているため、奇しくも後を追う形となった。 享年70 満69歳没)。 本業は俳優で「銭形平次」「大江戸捜査網」「子連れ狼」等時代劇を中心に数々のドラマに主演した。 享年72 満70歳 没)。 12日に品川区の自宅マンションで転倒し頭部を強打。 昏睡状態が続いていた。 享年88 満87歳没。 本業は俳優だが、自らの経験を基にした著書「積木くずし」は、ドラマ・映画化され、大きな話題となった。 享年67歳。 本業は俳優。 享年39 満38歳没。 本業は歌手、ミュージカル女優。 享年46 満44歳没)。 松浦亜弥のモノマネでブレイク。 「プリキュア」4作品のED振り付けも担当。 享年83歳。 本業は司会、タレント。 60〜70年代にかけて多くの冠番組をもった。 享年69(満68歳没。 享年80(満78歳没)。 自殺と見られる。 ウクレレ漫談の「やんなっちゃった節」で一世を風靡した。 享年68(満66歳没)。 本業は舞台女優。 享年85(満84歳没)。 本業は俳優、コメディアン。 芸名はアメリカの喜劇俳優バスター・キートンが由来。 享年75 満73歳没。 本業は俳優。 享年45 満43歳没。 「太陽にほえろ!」のジーパン刑事として知られる。 享年76 満74歳没。 「仁義なき戦い」「大江戸捜査網」「遠山の金さん」他数多く代表作がある昭和の名俳優。 満66歳没。 本業は演出家。 享年92 満90歳没。 本業は俳優で、「男はつらいよ」シリーズの2代目おいちゃん役が有名。 享年80 満79歳没。 本業は俳優。 享年51 満49歳没。 本業は漫才師であり、島田紳助とのコンビ「紳助・竜介」で人気を博した。 享年77 満75歳没。 本業は女優。 享年90歳。 本業は俳優。 享年76 満74歳没。 コメディアンで、自身をモデルにした「ごはんですよ」のCMは、本人の死後現在に至るまで続いている。 享年80(満79歳没)。 本業は放送タレント、エッセイスト。 享年91(満90歳没)。 本業は俳優。 代表作「釣りバカ日誌」シリーズの鈴木一之助(スーさん)役を21年間演じ続けた。 息子は俳優の佐藤浩市。 享年93 満91歳没。 本業は女優。 映画「男はつらいよ」シリーズのおばちゃん役で知られる。 本業は俳優。 劇団俳優座所属で、舞台の他に数多くの映画に出演、名脇役として鳴らした。 53歳没。 享年72歳。 本業は俳優。 享年53 満52歳没。 本業はコメディアン。 享年72 満70歳没。 本業は喜劇俳優。 「てなもんや三度笠」の鼠小僧役や「スナックカレー」のCMの「ハヤシもあるでよ」の名古屋弁のフレーズで有名。 享年77歳。 本業は歌手で、ルパンvs複製人間ではED「ルパン音頭」を、1992年にはテレビアニメ「スーパーヅガン」のED主題歌も 歌唱した。 享年78 満77歳没。 本業は女優。 夫は映画監督・演出家の故・若杉光夫。 享年71歳。 本業は俳優。 享年80歳。 本業は漫才師だが、数々の映画に出演した大女優でもある。 「となりの山田くん」は亡くなる前年に出演。 享年72(満71歳没。 元フジテレビアナウンサーで、「モーニングジャンボ奥様8時半です」等でメイン司会を務めた。 享年66 満65歳没。 本業は脚本・演出家で元女優。 「白鳥の王子」でも脚本を担当した。 夫は俳優の仲代達矢。 宮崎総子は妹。 享年89(満87歳没)。 俳優としてもNHK大河をはじめ、ドラマや映画に多数出演していた。 享年76 満75歳没。 本業は俳優。 声優としては主にスティーブ・マックイーンの吹き替えを中心に活躍。 本業は俳優。 享年82 満80歳没。 本業は俳優。 劇団テアトル・エコーの創設メンバーの一人。 93歳没。 本業はオペラ歌手。 日本最古かつ本格的な国産オペラ団体「藤原歌劇団」の名誉団員。 享年66 満65歳没。 劇団青年座所属の俳優だが、声優として洋画の吹き替えなども多く務めた。 享年79 満77歳没。 「ワイルド7」で知られる漫画家。 享年97 満96歳没。 戦前から演劇の世界やNHKアナウンサーとして活動。 18人目の国民栄誉賞受賞者。 享年81 満79歳没。 本業は俳優。 1954年に結成した劇団青年座の創立メンバーの一人。 元妻は女優の故・山岡久乃。 享年93 満92歳没。 舞台「放浪記」では2000回以上主演を果たした記録を持ち、2009年には国民栄誉賞を生前に授与された。 享年71(満70歳没)。 死因は不明。 享年66 満64歳没。 本業はタレント。 かつてはミュージシャンやキックボクサーも経験。 バラエティー番組での「ホタテマン」も人気だった。 享年54 満53歳没。 本業は俳優。 享年89(満88歳没。 宝塚出身の女優として半世紀以上活躍し、数々の賞を受賞。 自然環境保全審議会委員も務めた。 夫は映画監督の故・谷口千吉。 享年78歳。 本業は俳優だが、「仮面ライダー」や「ウルトラマン」シリーズで怪獣役も多く演じた。 享年68 満67歳没。 本業は俳優。

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珍 かすが たまる

南京新唱 招 待席 あいづ やいち 1881. 1-1956. 21 歌人 書家 美術史家 新潟市生まれ。 東京専門学校高等予科(早稲田大学の前身)で学び、坪内逍遥、ラ フカディオ・ハーンの講義を受ける。 卒業後郷里に帰って教鞭をとっていたが、坪内逍遥の招きで、早稲田中学の英語教師となり、後に早稲田大学文学部講師、 教授となる。 明治四十一年はじめて奈良旅行したことで仏教美術に関心を持ち、その後も研究のためしばしば奈良を訪れた。 はじめ俳句を作っていたが、奈良旅 行をしたあたりから歌を多く詠み、大正十三年第一歌集『南京新唱』を出版する。 なお書は独特の風格を持ち一家をなしている。 掲載作は昭和二十八年、新潮 社より刊行された最後の著作『自註鹿鳴集』に収載されたもので、「南京新唱」九十七首のうち四十九首までを抄録した。 (『會津八一全集 第五巻』(中央公 論社 昭和五十七年五月)より。 )歌もさることながら、作者自身が付した註はそれだけで学術的に裏づけされた文学的作品となっている。 秦 恒平 (抄) 會津 八一 明治四十一年八月より大正十三年に至る 南京・なんきやう。 ここにては奈良を指していへり。 「南都」といふに等し。 これに対して京都を「北京」といふこと行はれたり。 鹿持雅澄(カ モチマサズミ)の『南京遺響』佐佐木信綱氏の『南京遺文』などいふ書あり。 みな奈良を意味せり。 ともに「ナンキン」とは読むべきにあらず。 春日野にて かすがの に おしてる つき の ほがらかに あき の ゆふべ と なり に ける かも 春日野・かすがの。 若草山の麓より西の方一帯の平地をいふ。 古来国文学の上にて思出深き名にて、今も風趣豊かなる実景なり。 おしてる・照らすといふことを、さらに意味を強めていへり。 この歌を作者の筆跡のまま石に刻(ほ)りたる碑は、春日野の一部にて古来「とぶひ野」といふあ たりに立ちてあり。 『古今集』に「かすが野の飛火の野守(のもり)いでて見よ今いく日ありて若菜摘みてむ」といふ歌あり。 そのあたりなり。 これを見ん人 は、その位置を春日神社の社務所にて確めらるべし。 かすがの の みくさ をり しき ふす しか の つの さへ さやに てる つくよ かも みくさ・「み」は接頭語。 さやに・さやかに。 分明に。 つくよ・つきよ。 「よひづくよ」「ほしづくよ」「さくらづくよ」などあり。 うちふして もの もふ くさ の まくらべ を あした の しか の むれ わたり つつ うちふして・「うち」は接頭語。 次に来る語を強む。 ものもふ・物を思ふ。 物思ひす。 つの かる と しか おふ ひと は おほてら の むね ふき やぶる かぜ に かも にる つのかると・「かる」は「刈る」。 鹿は本来柔和の獣なれども、秋更(ふ)けて恋愛の時期に入れば、牡はやや粗暴となり、時にはその角を以て 人畜を害することあり。 これを恐れて予(あらかじ)め之を一所に追ひ集めて、その角を伐るに春日神社の行事あり。 この行事に漏れて、角ありて徘徊するもの を誘ひ集め、捕へてその角を伐ること行はる。 ある日奈良公園にて散歩中に之に遭(あ)ひし作者は、その伐り方の甚(はなは)だ手荒なるを見て、やや鹿に同 情したる気分にて、かく詠めるなり。 むね・棟。 こがくれて あらそふ らしき さをしか の つの の ひびき に よ は くだち つつ あらそふ・牝を争ひて相闘ふなり。 時としては、一頭乃至(ないし)数頭の牝鹿(めじか)を独占せんとて、牡鹿(をじか)の互(たがひ)に角 を以て搏(う) ち合ふなり。 その音春日野の夜の闇を貫きて十四五メートルの彼方(かなた)にも聞ゆ。 さをしか・牡鹿。 「さ」は接頭語。 「小男鹿」または「棹鹿」など宛字(あてじ)するは穏かならず。 よはくだちつつ・「くだつ」とは「下る」「傾く」の意。 夜のくだつとは、更け行くをいふ。 「つつ」といふ助詞は、同じ動作の繰返して行はるるに用(もち) ゐる。 現代語にて継続の意味に用ゐるとは同じからず。 うらみ わび たち あかしたる さをしか の もゆる まなこ に あき の かぜ ふく わぶ・思ひわづらふ。 鹿の心を擬人法にていへるなり。 かすがの に ふれる しらゆき あす の ごと けぬ べく われ は いにしへ おもほゆ あすのごと・「ごと」は「如く」。 明日にもならばといふこと。 けぬべく・消えなんばかりに。 雪は明日にも消ゆべし。 われも消え入らんばかりの心にて、上代のことを思ふといふなり。 もりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の ねむり しづけき はる の ゆき かな ふぢ・藤。 春日山のほとりには、杉の古木多く、それに纏(まと)へる藤にも老木多し。 よる・倚(よ)る。 よりかかる。 身を寄す。 をぐさ はむ しか の あぎと の をやみ なく ながるる つきひ とどめ かねつ も をぐさ・「を」は接頭語。 ただ「草」といふに同じ。 しか・鹿。 上下の顎(あご)を左右にゆるく噛み合せて草を食ふ。 その顎の暫くも止まざる如く、歳月は流れ去るといふに思ひ合せて詠めり。 『万葉集』の歌人 は獣の同じ習性を「春の野に草食(ハ)む駒の口やまず吾(ア)を忍ぶらむ家の子ろはも」など云へり。 また『万葉集』の鹿は、ただ里遠く木隠れて鳴く本能の姿なりしに、藤原時代に入れば、忽(たちま)ち神格を帯びて記録に現はるるものあり。 しかるに此の集 に見るところの鹿は、往々にして社頭の行人(かうじん)の心に似たるものを帯び来(きた)れるが如し。 興福寺をおもふ はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり ほとけ の には に はな さく らし も 興福寺・法相宗(ほつさうしゆう)三大本山の一。 藤原不比等(ふひと)が和銅三年(710)厩坂寺(ウマヤザカデラ)をここに移したるに始 まり、藤原氏の 氏寺として、歴代の官寺たる東大寺と対峙(たいぢ)して二大勢力の一となり、遂には堂塔の数も百宇を超ゆるに及べりといふ。 中世以後には僧兵を蓄へて武威 を張り、或は春日の神輿(みこし)を擁して朝廷に強訴(がうそ)し、或は比叡山、多武峯(たふのみね)等と相攻伐(あひこうばつ)し、その間兵火に罹(か か)ることも屡(しばしば)なりしも、従つて近畿の最大勢力となり、嘉吉(かきつ)元年(1441)に記録せるこの寺の『官務牒疏(てふそ)』によれば、 山城、大和、近江、摂津、伊賀の五国にわたり、二百数十の社寺の上に統御の権を握りしが、享保(きやうほう)二年(1717)金堂(こんだう)、西金堂、 講堂、南円堂が罹災(りさい)して伽藍(がらん)の中枢を失ひ、明治に入りては諸制度の一変のために全く衰弱に陥れり。 その五重塔と東金堂とが、今も奈良市の景観の中心を成せるは、真に多とすべきも、その建立(こんりふ)は室町時代を遡(さかのぼ)るものにあらず。 これよ り古きものには、北円堂と三重塔とがあれど、これ等もまた、鎌倉時代を上るものにあらざるのみならず、観光者にしてその存在に注意するものまた少し。 ひと り観音霊場西国第二番の札所として、わづかに徳川初期に再興したる南円堂に賽(さい)するものあるのみ。 ただ境内に桜樹多く、ことに「いにしへの奈良の都の八重桜」と称する一株の老木は、この寺の地つづきなる学芸大学の庭上にあり。 桜には千年の古木あるべく もあらねど、この名を聞きたるのみにても感想また多かるべし。 『大和名所図会』には当時に於ける樹姿を描けり。 そもそも天平時代に於けるこの寺の諸堂内外の多彩なる盛況を知らんとするには、須(すべから)く先づ『続日本紀(しよくにほんぎ)』と『万葉集』とを読 み、併(あは)せて『興福寺流記(こうふくじるき)』または『諸寺縁起集』中のこの寺の条を読むべし。 まことに咲く花の匂ふが如きものありしを知るべし。 猿沢池にて わぎもこ が きぬかけやなぎ み まく ほり いけ を めぐりぬ かさ さし ながら 猿沢池・興福寺の南にあり。 この池の岸に「釆女祠(うねめし)」といふものあり。 そのほとりに「衣掛柳」(キヌカケヤナギ)といふものあ り。 一たび平城京 のさる天皇の寵(ちよう)を得て、やがてまたこれを失ひしを悲みて、身をこの池に投じたる一人の釆女の伝説あり。 その天皇の歌に「猿沢の池もつらしなわぎ もこが玉藻かづかば水ぞひなまし」、また柿本人麿の歌に「吾妹子(わぎもこ)が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき」など『枕草子』『大和物語』 『南都巡礼記』その他にも見ゆ。 しかるに、ひとり『七大寺巡礼私記』及び『諸寺縁起集』に収めたる『興福寺縁起』にては、これを桓武天皇の三皇子の皇位継承に伴ふ葛藤によりて生じたる悲 劇とし、水死したるものを平城天皇の皇后なりとせり。 また「猿沢」といふ名につきて『和州旧跡幽考』などには、仏典にいふところの天竺(てんぢく)の「み(けものヘンに彌)猴池」(ミゴウチ)といふものに摸 したる命名の如くにいへど、古来春日山には野猿多く、今日にても、群をなして公園に近き民家の裏庭の果樹を荒らすことさへ珍しからざれば、遠き印度(いん ど)にまで、その起源を求むる必要はなかるべきなり。 奈良博物館にて くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ 奈良博物館・この地方に旅行する人々は、たとへ美術の専攻者にあらずとも、毎日必ずこの博物館にて、少くも一時間を送らるることを望む。 上 代に於ける祖国 美術の理想を、かばかり鮮明に、また豊富に、我らのために提示する所は、再び他に見出しがたかるべければなり。 やうらく・瓔珞。 本来は、珠玉など七宝を綴り合せて造れる頸飾(くびかざり)をいふ語なれども、ここにては、宝冠より垂下せる幾条かの紐形の装飾をいへる なり。 されどこの歌は、法輪寺講堂の本尊十一面観音を詠みたるものなるに、歌集刊行の際、草稿の整理を誤りて、ここに出せるなり。 それにつきて『渾斎(こんさ い)随筆』に一文を草しおけり。 くわんおん の せ に そふ あし の ひともと の あさき みどり に はる たつ らし も せにそふあし・背に副ふ蘆。 所謂(いはゆる)「百済(くだら)観音」の光背の支柱を、蘆の茎の形に刻めるものをいへり。 その支柱に微(か す)かに残れる白 緑(びやくろく)の彩色をよすがとして、そぞろに春色の蘇(よみがへ)り出で来らむことを、希望を込めて詠めるなり。 ほほゑみて うつつごころ に あり たたす くだらぼとけ に しく ものぞ なき ほほゑみて・一種静かなる微笑を湛(たた)へたり。 後に法隆寺夢殿にて詠める歌にても、この一語あり。 参照されたし。 うつつごころ・うつつとも夢ともなき心地、有無の間に縹渺たる心境、かかる意に作者はこの語を用ゐたり。 この歌、今にては多少世上に知られ、ほぼ作者のこ めたる意味にて解せられ居るが如きも、古人は「正心」、「正気」「本心」の意味にのみこの語を用ゐたるが如し。 くだらぼとけ・以上二首は、法隆寺よりその頃久しく出陳して、館のホールの中央なる大ケースの正面に陳列してありし俗称「百済観音」(クダラクワンオン) を詠めるなり。 されど、この像の法隆寺に於ける存在は、文献の上にては、遠き上代には遡りがたし。 恐らく中古に至りて、衰亡せる他の寺より——たとへば玉 虫厨子(たまむしのずし)などの如く——移入されしものなるべし。 元禄、享保の頃、法隆寺の学僧良訓が手録せる『良訓補忘集』及び同じ人の『古今一陽集』 には、ともにただ異国よりの将来にして伝歴明かならざるよしを記せるのみにて、特に「百済より」といふことはあらず。 依つて思ふに、「百済観音」の名が、 一般的に固定するに至りしは、恐らく明治時代の中期以後なるべく、作者のこの歌も、或は何程かこの固定に貢献し居るやも知るべからず。 ことに亡友浜田青陵 君が、大正十五年(1926)に出したる美術随筆集を『百済観音』と名づけ、その赤き表紙に、作者の自筆なるこの歌を金文字にて刷り込みたることなど、こ の場合として思ひ出さるることなり。 また作者は、かつてこの像の台座の底面を見たることありしに、「虚空蔵」の三字が達筆に墨書されてありき。 これは法輪寺にてこの像と殆ど同型、同持物の菩 薩像を、同名にて呼び来れると同じく、中古には、虚空蔵菩薩を中心とせる会式の本尊として、便宜上、法隆寺にても通用したることありしなるべし。 されど倉 庫の中より、別に発見されたる、まさしくこの像の宝冠と見るべきものに、阿弥陀の化仏(ケブツ)が透彫(すかしぼ)りに刻まれてあるは、虚空蔵にあらずし て観音なることの一確証なり。 (化仏トハ宝冠、宝髻(ほうけい)、マタハ光背ナドニ、小形の像ノ取リ附ケラレタルヲイフ。 ) つと いれば あした の かべ に たち ならぶ かの せうだい の だいぼさつ たち つといれば・「つと」とは卒然としてといふに同じ。 俳諧の季題に「つと入り」といふことあるも、ここは何等関係なし。 せうだい・招提。 唐招提寺を指していへり。 作者この歌を詠みしころは、博物館のホールに入りたるばかりの処に、雪白の堊壁(あへき)を背にして、唐招提寺 のみにあらず、薬師寺、大安寺などの等身大の木彫像林立して頗る偉観を呈したり。 はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は をゆび の うれ に ほの しらす らし をゆび・「おゆび」といはば「お」は接頭語にて、ただ「ゆび」といふに同じきも、「をゆび」は小指なり。 小指の末端は最も鋭敏なるものなれ ばかく詠めるな り。 うれ・末端。 ほのしらすらし・ほのかに認識したまふなるべしといふなり。 『万葉集』には「ほの聞く」といふ語あり。 中古には「ほの見る」「ほの聞く」「ほの思ふ」など いへる例あれば「ほの知る」とつづけたるなり。 「しらす」は「しる」の敬称。 「らし」は推量。 こんでい の ほとけ うすれし こんりよう の だいまんだら に あぶ の はね うつ こんりよう・紺綾。 紺色の綾地(あやぢ)に金銀泥にて描きたる縦広一丈にあまる大曼荼羅(だいまんだら)。 金剛界、胎蔵界の二幅あり。 空海 (774- 835)が唐土より齎(もたら)すところといふ。 高市(たけち)郡高取町子島寺の出陳なりき。 高畑にて たびびと の め に いたき まで みどり なる ついぢ の ひま の なばたけ の いろ 高畑・たかはたけ。 奈良市の町名。 東大寺より南方に当る。 新薬師寺のある所。 ついぢ・「築き地」の転。 また「ついひぢ」「ついがき」などといふ。 土を築き上げ、その中に屋根瓦、石塊、木柱などを塗り込めて作れる塀。 「ひま」とは崩 れたる間隙。 『枕草子』には「人にあなづらるるもの、ついぢのくづれ」、『伊勢物語』には「ついひぢの崩れより通ひけり」、『古今著聞集(ここんちよもん じふ)』には「ついぢの上に瞿麦(ナデシコ)をおびただしく植ゑられたり」など諸書にいろいろの例ありて聯想(れんさう)豊なり。 かうやくし わが をろがむ と のき ひくき ひる の ちまた を なづさひ ゆく も のきひくき・この辺は、奈良にても、やや場末なれば、軒低き家多きなり。 なづさふ・なつかしむ。 新薬師寺の金堂にて たびびと に ひらく みだう の しとみ より めきら が たち に あさひ さしたり 新薬師寺・高畑町にあり。 古来東大寺の末寺たり。 西の京に薬師寺あるを以て「新」の字を加へたるなり。 これを混同する人多けれども全く別寺 なり。 聖武天皇 の眼疾平癒のために、天平十九年(747)光明皇后の建つるところ。 天平勝宝二年(750)寺領を定めて五百町を寄せ、住僧百余人に及べる一伽藍なりし が、宝亀(ほうき)十一年(780)雷火によりて、一日にしてその金堂(コンダウ)、講堂、西塔(サイタフ)を失へり。 今この寺にて金堂と称するものは、 その位置、構造、規模などより考ふるに、決して最初の金堂にはあらずして、わづかに残存せる一棟、たとへば食堂(ジキダウ)などにてありしが如し。 また今の金堂にて、本尊薬師如来を囲繞せる十二神将は、本尊よりも古き様式を持つのみならず、廃滅せる岩淵寺(イハブチデラ)より移入せりといふ伝説あ り。 しかるにこの寺の別堂に近頃まで安置せる「香薬師(かうやくし)」の立像(りふざう)は、その様式、これ等の神将群よりも更に古し。 いづれも本末を顛 倒(てんたう)せるものの如し。 またこの寺の最初の十二神将は、何の時か興福寺の衆徒のために奪ひ去られて、その寺の東金堂の壇上に陳列され居りしこと は、保延(ほうえん)六年(1140)の『七大寺巡礼私記』に記しあれども、これ等の神将像は、かの治承四年(1180)の罹災によりて堂とともに全滅し て、今また見るべからず。 諸仏の運命も、その果敢(はか)なきこと、人間界に似たりといふべきなり。 しとみ・蔀。 後世にいたりて造りつけたるものなるべし。 平素は密閉して堂内は暗黒なれども、たまたま美術行脚(あんぎや)の人々など来りて乞はるる時にの み、寺僧は之を開きて暫く外光を入るるなり。 めきら・「迷企羅」の漢字を宛つれども、実はその漢字には意味なく、梵名(ぼんめい)の原音の宛て字なり。 薬師如来に従属する十二の神将の一。 ただしこの 寺の十二神将は、その製作、日本に現存する神将像中最も古く、したがひて、その形式は後世に固定せるいづれの儀軌(ぎき)にも吻合(ふんがふ)せざるが故 (ゆゑ)に、凡(おほよ)そかかる場合には一一の名称は、その寺にて従来称(とな)へ来りしところに従ふを穏当とす。 しかるに作者がこの歌を詠じたる時に は、本尊の右側に立ちて、太刀を抜き持ち、口を開きて大喝せるさまにて、怒髪の逆立したるこの一体には、寺にては、久しくその脚下に「迷企羅大将」の名標 を添へおきたりしかば、作者はその意を尊重して、かくは詠じたるなり。 然(しか)るにその後、現住職福岡師の勉強にて、この群像は最も『恵什鈔(けいじふ せう)』の儀軌に近きことを発見し、今は同鈔に従ひて、一一の名称を改め、堂内の配列をも変へ居るなり。 特に初心の読者のために述べんに、ここに「儀軌」といへるは、礼拝(らいはい)祈祷の対象として仏像の製作をなし、これを厳飾し、または仏具の配列など為 (な)さんとするに当り、それぞれ特殊の形式に従はしむるやうに規定せるものをいふ。 されども、その儀軌にも種類ありて、必ずしも互に一致せざるのみにあ らず、いづれにするも、平安朝初期に密教が我が国に渡来せる後に、やうやく盛に行はれ来りしことなれば、それ以前の古像を、之を以て律することは、この歌 の作者の躊躇(ちうちよ)せんとするところなり。 なほこの書の中「軍荼利夜叉明王(ぐんだりやしやみやうわう)「百済観音」「九品(くほん)ノ弥陀(みだ)」「中宮寺本尊」の条に儀軌の一端に触れたり。 それらによりて、儀軌といふものをよく理解せらるべし。 香薬師を拝して みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の やまとくにばら かすみて ある らし かうやくし・香薬師。 奈良時代前期と思(おぼ)しき形式を、その製作の細部に有する小像にて、傑作の名高かりしを、昭和十八年(1943) 第三回目の盗難 に罹りたるままにて、遂に再び世に出で来らず。 惜しみても余りあり。 正倉院に伝来せる天平勝宝八歳(756)の『東大寺定界図』に「新薬師寺堂」の東北に当る丘陵地帯に「香山堂」の名あり。 おもふに、わが「香薬師」は、本 来この堂に祀れるを、何故(なにゆゑ)かこの堂は早く荒廃して、この像は「新薬師寺」に移され、その後はその記念のために「香」の一字を仏名の上に留めた るなるべく、寺そのものも、この像あるがために、『延暦僧録』(エンリヤクソウロク)または『東大寺要録』その他に見ゆる如く「香薬寺」といふ別名を得る に至りしなるべし。 『延暦僧録』に曰(いは)く「皇后マタ香薬寺九間ノ仏殿ヲ造ル。 七仏浄土七躯(く)を造リ、請(しやう)ジテ殿中ニ在リ。 塔二区ヲ造リ 東西ニ相対ス。 鐘一口(いつく)ヲ鋳(い)ル。 住僧百余」と。 亦(ま)た以て今日の諸堂の衰微と甚だ相似ざるものなりしことを知るべし。 また「香山」の二字は、或は「カグヤマ」と和様に読むべきこともあれど、ここにては「カウゼン」を正しとす。 ヒマラヤ山脈の中にて、今は「カイラーサ山」 と称するものを指して、仏典にては「香酔山」又は「香山」と書き、また、かの『梁塵秘抄(りやうぢんひせう)』の中にて「香山浄土」または「香山」と書け るは、共にこれなり。 うつらまなこ・何所(どこ)を見るともなく、何を思ふともなく、うつら、うつらとしたる目つき、これこの像の最も著しき特色なり。 されど「うつらまなこ」 といふ語は、さきに出でし「うつつごころ」とともに、古人に用例あるを知らず。 或はこの歌の作者の造語ならむ。 ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の みそなはす とも あらぬ さびしさ あふぎみれども・高さ二尺四寸の立像にて、決して高しとはいふべからざるも、薬師堂の正面の壇上に、やや高く台座を据ゑたれば、「仰ぎ見 る」とは詠めるな り。 この歌の作者自筆の碑は、今は空しくその堂の前に立てり。 嶋中雄作君の建つるところ。 高円山をのぞみて あきはぎ は そで には すらじ ふるさと に ゆきて しめさむ いも も あら なく に 高円山・たかまどやま。 春日山の南、新薬師寺の東にあたる小丘。 聖武天皇の離宮ありしところ。 後々まで萩の名所となれり。 『万葉集』に「宮人の袖つけ衣 (ごろも)秋萩に匂ひよろしき高円の宮」「わが衣摺(す)れるにはあらず高円の野べ行きぬれば萩の摺れるぞ」などあり。 なほ後世この山の萩の歌多し。 そでにはすらじ・奈良時代には植物の花葉をそのまま衣服に摺りつけて模様とすること行はれたり。 これを「はなすりごろも」また「すりごろも」などいふ。 滝坂にて かき の み を になひて くだる むらびと に いくたび あひし たきさか の みち 滝坂・『大和名所図会』には滝坂を紅葉の名所とし、里人数輩が、渓流の岸なる樹下に毛氈(もうせん)を敷きて、小宴を開くの図を出し、その 上に「千里ノ楓 林(ふうりん)ハ煙樹深ク、朝トナク暮トナク猿吟アリ」と題せり。 文字の誇張はさることながら、この辺に野猿の多きは、これにても見るべし。 くだる・石切峠より下り来るなり。 まめがき を あまた もとめて ひとつ づつ くひ もて ゆきし たきさか の みち まめがき・字書によれば「葡萄柿」「ころ柿」など、みな「まめがき」といふ別名あるよし。 されど、ここに詠みたるは、極めて小粒の柿といふ までのことな り。 すなはち「豆本」「豆電球」の「豆」のごとし。 かけ おちて いは の した なる くさむら の つち と なり けむ ほとけ かなし も つちとなりけむ・この歌はかかる仏もあるべしと想像して詠みしなるも俗に「寝仏」と名付けて、路傍に顛落(てんらく)して、そのまま横たは り居るものもあ るなり。 たきさか の きし の こずゑ に きぬ かけて きよき かはせ に あそびて ゆかな たきさかの・この歌偶然にも「カ行」の音多く、「カ」四、「キ」五、「コ」一あり。 幾分音調を助け居るが如し。 後に法隆寺金堂の扉の音を詠 みたる歌の音調 の説明を参照すべし。 ゆかな・「な」は希望の助辞。 ゆふ されば きし の はにふ に よる かに の あかき はさみ に あき の かぜ ふく はにふ・埴(はに)のあるところ。 あかきはさみ・胴体小さく、鋏のみ赤き沢蟹は、川岸を駈けめぐること神速にして飛ぶが如し。 地獄谷にて いはむろ の いし の ほとけ に いりひ さし まつ の はやし に めじろ なく なり 地獄谷・滝坂より進みて石切峠の急坂を攀(よ)ぢ、左側に石仏群を見る。 久寿二年(1155)の刻銘、保元(ほうげん)二年(1157)の墨書あり。 それ より東南に小径を進むこと三百メートルに地獄谷石窟あり。 その壁上に六体の仏菩薩像を線刻し、もと彩色を施し、所々に金箔を押したる痕跡あり。 藤原時代の 作と見らる。 『沙石集(しやせきしふ)』(1279)『春日御流記(かすがごりうき)』の二書には同文にて、解脱上人(ゲダツシヤウニン)の弟子なる璋円(しやうゑ ん)は死後魔道に堕(お)ちて、その霊が、或る女に憑(つ)きて、その口を藉(か)りて云はしめし言葉として、春日明神は、春日野の下に地獄を構へて、毎 朝亡者(まうじや)の口に清水を灑(そそ)ぎ入れて、正念(しやうねん)に就かしめ、大乗(だいじよう)の要文(えうもん)を唱へ聞かせて得脱(とくだ つ)せしめらるるよしを記せり。 されど、これを以て「地獄谷」の名称の起源となすとも、今の石窟中の諸像の製作時代には関するところ無かるべし。 東大寺にて おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて おほき ほとけ は あまたらしたり 東大寺・大仏殿は天平十七年(745)聖武天皇によりて奈良の地にて起工。 治承四年(1180)平重衡によりて焼失。 建久六年(1195) 源頼朝 (1147-1199)大檀越(だいだんをつ)となりて再建。 永禄十年(1567)三好、松永の兵火にて焼かれ、宝永五年(1708)復興落成せり。 作者が初めてこの寺に詣でたるは、明治四十一年(1908)恰(あたか)も大修理の最中なりしかば、境内には木石の山を築き、鉋鋸(はうきよ)の響(ひび き)耳を聾(ろう)し、人夫車馬の来往織るが如く、危(あやふ)くその中を縫ひて進めば、大仏の正面にはいと高き足場を組み上げ、その上より参拝せしめら れたり。 あまたらし・盧舎那仏(るしやなぶつ)即ち大仏は、宇宙に遍満(へんまん)すとも、或は宇宙と大さを同(おなじ)うすともいふべし。 これを「あまたらす」 といへり。 「たらす」とは「充足す」「充実す」の意なり。 今の大仏は従来幾度か火難に遇(あ)ひて、惜しむべし上半身は後世の補修なれども、下半身は原作 のままにしてことに座下の蓮弁には、一片ごとに天平のままなる三千世界図の流麗なる線刻あり。 すなはち『梵網経(ぼんまうきやう)』に説ける宇宙の図にし て、大仏は実にかくの如き世界の、無数に集合せる上に、安坐することを、象徴的に示せるなり。 仏教はもとより広汎(くわうはん)深遠なるものにて、その大 綱(たいかう)を知るさへ、決して容易にあらざれども、奈良地方を巡遊して、その美術的遺品を数をつくして心解せんとするほどの人々は、たとへ年少初学の 士なりとも、志を深くし、適当なる指導者を得て、予め相応なる知識的準備をなすを必要とす。 その準備の深きに従ひて、収穫また従つて多かるべし。 『梵網 経』に曰く「コノ時、盧舎那仏即チ大ニ歓喜シ(中略)、諸(もろもろ)ノ大衆ニ示スラク、是(こ)ノ諸ノ仏子ヨ諦聴シ、善思シテ、修行セヨ。 我已(すで) ニ百阿僧祇却(ひやくあそうぎこふ)、心地(しんち)ヲ修行シ、之ヲ以テ因トナシ、初テ凡夫ヲ捨テ、等正覚(とうしやうがく)ヲ成シ、号して盧舎那トナ ス。 蓮華台蔵世界海(れんげたいざうせかいかい)ニ住シ、その台周遍(あまね)ク千葉アリ、一葉ハ一世界ニシテ、千世界トナル。 我化シテ千釈迦トナリ、千 世界ニ拠リ、後ニ一葉世界ニ就キテ、復(ま)タ百億ノ須弥山(しゆみせん)、百億ノ日月、百億ノ四天下(してんげ)、百億ノ南閻浮提(なんえんぶだい)ア リ。 百億ノ菩薩釈迦、百億ノ菩提樹下ニ坐シ、オノオノ汝ガ問フ所ノ菩提薩た(土ヘンに垂)(ぼだいさつた)ノ心地ヲ説キ、ソノ余ノ九百九十九釈迦ハ、オノ オノ千百億ノ釈迦ヲ現ズルコト、マタマタ是(かく)ノ如シ。 千華上ノ仏ハ、是レ吾ガ化身ナリ。 千百億ノ釈迦ハ、是レ千釈迦ノ化身ニシテ、吾已ニ本原ニシ テ、オノオノ盧舎那仏トナル」とあり。 またその下巻には「我今盧舎那、方(まさ)ニ蓮華台に坐シ、周匝(しうさふ)千華ノ上、マタ千ノ釈迦ヲ現ジ、一華百 億国、一国一釈迦ニシテ、オノオノ菩提樹下ニ坐シ、一時仏道ヲ成ズ」とあり。 また作者が自筆のままにこの歌を刻したる石碑は、大仏殿の中門の西に当る木立の中にあり。 高さ一丈五尺。 嶋中鵬二氏の建立するところ。 あまたたび この ひろまへ に めぐり きて たちたる われ ぞ しる や みほとけ ひろまへ・神社仏閣の前庭。 戒壇院をいでて びるばくしや まゆね よせたる まなざし を まなこ に みつつ あき の の を ゆく 戒壇院・聖武天皇(701-756)の招請により、天平勝宝六年(754)に我国に渡来せる唐僧鑑真(ガンジン)は、翌年大仏殿前に戒壇を 築きて、天皇、 皇后、以下百官、僧俗に戒律を授け、その後大仏殿の西方なる現在の地に之を移せり。 しかるに、この院は、幾度か火災に遇ひ、現在の堂宇は、享保十年 (1725)の再建立なり。 堂内の中央なる土壇の上に五重の小塔あり。 その中に釈迦、多宝の二躯の坐像あり。 共に満身に罹災の痕(あと)を示せり。 然るに 東大寺の僧凝然の『三国仏法伝通縁起』(1311)は最初の戒壇を談(かた)りて「立ツル所ノ戒場ニ三重ノ壇アリ。 大乗菩薩三聚浄戒(さんじゆじやうか い)を表スル故ニ、第三重ニ多宝塔ヲ安ンズ。 塔中ニ釈迦多宝二仏像ヲ安ンズ、一乗深妙理智冥合(いちじようじんめうりちめいがふ)ノ相(さう)を表ハス」 といへり。 ことに壇の四隅には、最初は天平勝宝七年(755)に成りし鋳銅の四天王像を安置したりといふ。 また壇を築ける土は、天竺、唐土、日本のものを 和して用ゐたれば、之を嘗(な)むれば、その味、天竺の大那爛陀寺(ダイナランダジ)のものの如くなりしといふ。 びるばくしや・広目天(くわうもくてん)の梵名Virupaksa(uと六字目のaの上に「-」、sの下に「・」)。 「毘楼博叉」又は「毘留羅叉」の漢字 を宛つ。 まゆねよせたる・両の眉を寄せて、遥かなる彼方を見入るが如き目つきをなせり。 しかるに奈良に住める一部の人々の中には、この像の目つきは、甚だこの歌の 作者のそれに似たりと評する者あれど、果して如何(いかん)。 これにつきて『渾斎随筆』に記せり。 東大寺懐古 おほてら の ほとけ の かぎり ひともして よる の みゆき を まつ ぞ ゆゆしき 懐古・『続日本紀』によれば「天平十八年(746)十月、天皇、太上(だいじやう)天皇、皇后、金鐘寺(こんしゆじ)ニ行幸シ、燈ヲ燃シテ 盧舎那仏ニ供養 シ、仏ノ前後ノ燈一万五千七百余坏(はい)ナリ。 夜一更(いつかう)ニ至ルトキ、数千ノ僧ヲシテ、脂燭(しそく)ヲささ(敬の下に手)ゲテ賛歎供養シテ、 仏ヲ繞(めぐ)ルコト三匝(さんさふ)セシメ、三更ニ至リテ宮ニ還(かへ)ル」また天平勝宝六年(754)正月の条にも「東大寺ニ行幸ス。 燈ヲ燃スコト二 万ナリ」とあり。 ここに天皇とは聖武、太上天皇とは元正、皇后とは光明をさせり。 また金鐘寺とは東大寺の前称なり。 ほとけのかぎり・寺中のいやしくもあらゆる諸仏、諸菩薩、諸天の像にも悉(ことごと)く献燈せりといふこと。 おほてら の には の はたほこ さよ ふけて ぬひ の ほとけ に つゆ ぞ おき に ける 奈良坂にて ならざか の いし の ほとけ の おとがひ に こさめ ながるる はる は き に けり ならざか・昔は平城京大内裏(だいだいり)の北方を山城国へ抜ける道を「ならざか」と呼びしが、今はこれを「歌姫越」(ウタヒメゴエ)とい ひ、もとの般若 寺越(はんにやじごえ)の坂を「ならざか」といふこととなれり。 いしのほとけ・奈良坂の上り口の右側の路傍に俗に「夕日地蔵」と名づけて七八尺の石像あり。 永正六年(1509)四月の銘あり。 その表情笑ふが如く、また 泣くが如し。 またこの像を「夕日地蔵」といふは、東南に当れる滝坂に「朝日観音」といふものあるに遥かに相対するが如し。 浄瑠璃寺にて じやうるり の な を なつかしみ みゆき ふる はる の やまべ を ひとり ゆく なり 浄瑠璃寺・一名九体寺(クタイジ)。 山城国相楽郡(さうらくぐん)当尾(たうのを)村字西小(にしを)にあり。 天元五年(982)多田満仲 (ただのみつな か)の創基、永承二年(1047)義明の再興と称す。 寺名「九体」といふは阿弥陀を想はしめ、「浄瑠璃」の薬師を想はしむると一致せず。 その間に寺史の変 遷を暗示せるなり。 じやうるり・仏典によれば、東方十恒河沙(じふごうがしや)の里程に薬師瑠璃光如来(やくしるりくわうによらい)の浄土あり。 これを浄瑠璃世界といひ、こ れを以て西方阿弥陀如来の極楽世界に対す。 「恒河」とは即ちガンジス河をいふ。 その河底の砂粒の限りなきが如き大数を現さんとする表現なり。 かれ わたる いけ の おもて の あし の ま に かげ うちひたし くるる たふ かな たふ・塔。 藤原時代の三重塔あり。 檜皮葺(ひはだぶき)。 治承二年(1178)一条大宮より移建せるもの。 この塔内に薬師如来の坐像あり。 あしのま・蘆の間。 びしやもん の ふりし ころも の すそ の うら に くれなゐ もゆる はうさうげ かな はうさうげ・宝相華。 図案化したる一種の華麗なる植物文様(もんやう)。 ただしこの歌を詠みし後、数年を経て、作者はふたたびこの寺に至り て堂の床に匍 (は)ふやうにして窺(うかが)ひ見るに、この毘沙門像の裾の裏には、この歌にいへる如き鮮紅色の宝相華は見当らざりき。 見たる如く思ひ違ひて、帰り来り て後にかくは詠みなししものと見ゆ。 平城宮址の大極芝にて はたなか の かれたる しば に たつ ひと の うごく とも なし もの もふ らし も 平城宮址・元明天皇の和銅三年(710)都を平城京に遷(うつ)し、皇居を平城宮といふ。 大黒芝・だいこくのしば。 もとの大極殿の址(あと)。 「大極」といふことばは里人には耳遠くなりて、いつしか「大黒」となれるなり。 一面に芝草を植ゑた り。 ものもふ・物思ふの略。 はたなか に まひ てり たらす ひとむら の かれたる くさ に たち なげく かな まひてりたらす・「ま」は接頭語。 充分に日光の照らせりといふこと。 作者はこの後「平城宮址懐古」七首あり。 かかげて作者の『全歌集』にあ り。 参読してこ の史蹟(しせき)の余情を偲ぶべし。 海竜王寺にて しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の はしら の まそほ かべ に ながれむ 海竜王寺・別名を「角寺」(スミデラ)「隅院」(スミノヰン)などといふ。 天平三年(731)光明皇后の立願(りふぐわん)にて建立。 玄ば う(日ヘンに 「方」)(げんばう)は僧正義淵(ぎえん)の門より出で、眉目秀麗音声清朗にして学才あり。 霊亀(れいき)二年(716)唐に赴(おもむ)き、智周(ちし う)より法相(ほつさう)の蘊奥(うんあう)を受け、皇帝玄宗より紫色の袈裟(けさ)を贈られ、経論章疏(きやうろんしやうそ)五千余巻を齎して、天平六 年(734)得々として帰朝し、聖武天皇及び皇后の殊遇を受け、内道場に出入し、この海竜王寺に居れり。 当時彼のために企てられしこの寺は、金堂、東西金 堂、五重小塔、講堂、経蔵(きやうざう)、鐘楼、三面僧房、食堂、浴室等を悉く備へたりと称せらるるも、今日にしては、その最初の西金堂と鎌倉時代再建の 経蔵とを遺(のこ)せるのみなるは、まことに甚しき凋落(てうらく)といふべし。 今は真言律宗。 しぐれのあめ・後世にては、ただ「しぐれ」とのみいふを、『万葉集』だけにても、この語を含みたる歌は十数首に及べるが、作者は暢(の)びやかなるこの語 の音調を好めり。 ことに天平十一年(739)十月、皇后主催の維摩会(ユヰマヱ)に、唐楽(たうがく)、高麗楽(こまがく)を供養したるのち、市原王(い ちはらのおほきみ)、忍坂王(オサカノオホギミ)が弾ける七絃琴に合せて、田口家守(たぐちのやかもり)、河辺東人(かはべのあづまひと)等数人が歌ひた る仏前の唱歌(しやうが)に「時雨のあめ間(マ)なくな降りそ紅に匂へる山の散らまく惜しも」といへるを、作者は愛唱すること久しかりしかば、図らずも、 その皇后に縁浅からざるこの寺に臨みて詠める歌は、おのづから、その余韻を帯び来りて、恰もこれに唱和せるが如きを覚ゆ。 されど歌材は、あくまでも、眼前 の実情なり。 また実朝の『金槐集(きんくわいしふ)』には「いたくなふりそ」の句二度まで見ゆるも、作者の態度は、著者とは互に同じからず。 まそほ・真赭。 「ま」は接頭語。 赭色の顔料。 建築の塗料とす。 『万葉集』には「仏(ホトケ)造るまそほ足らずば水たまる池田の朝臣(アソ)が鼻の上を掘 れ」などいひ、「まそほ」には「真朱」の二字を宛てたり。 ふるてら の はしら に のこる たびびと の な を よみ ゆけど しる ひと も なし はしらにのこる・作者往年微酔を帯びて東大寺の傍(かたはら)を過ぎ、その廻廊の白壁に鉛筆を以て文字一行を題して去りしが如し。 還(か へ)つて自(みづ か)ら之を記憶せざりしに、十数年にして人ありて之を見たりと称す。 信ぜずしてその文を質(ただ)せば、乃(すなは)ち曰く「秋艸道人(しうさうだうじ ん)酔ひてこの下を過ぐ」と。 これを聞きて苦笑これを久しくしたるも、今は洗ひ去られてまたその痕跡なし。 法華寺本尊十一面観音 ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に あひみる ごとく あかき くちびる 法華寺本尊・この寺は、藤原不比等(659-720)の歿後、その次女なる光明皇后(701-760)が父の遺宅を移して寺となしたるに始 まり、天平十三 年(741)聖武天皇が東大寺を「総国分寺」とし、「四天王護国ノ寺」と名づけたるに対して、皇后は之を「総国分尼寺(にじ)」とし、「法華滅罪ノ寺」と 名づけたり。 この上代に於ける一女人として、その意気の雄邁(ゆうまい)なるに感ぜざるを得ず。 然るに、次第に寺運傾き、鎌倉時代に至りて嵯峨の二尊院の 湛空(たんくう)(1176-1253)の修理、西大寺の叡尊(えいそん)(1201-1296)の復興を経たるも、乾元(けんげん)二年(1303)の 記録には、すでに「棟破レテ甍(いらか)アラハナリ。 壇崩レテ扉傾ク」とあり。 しかして応永十五年(1408)には西塔炎上し、その後興亡二百年の末、堂 一宇、塔一基のみとなり果てたるに、今の本堂は、もとの金堂の余材を以て、豊臣秀頼が生母淀君の菩提のために、慶長六年(1601)片桐且元に命じて再興 せしめたるものなりとて、欄杆(らんかん)の擬宝珠(ぎぼし)にその刻文あり。 創建当時の俤(おもかげ)とては、少数の国宝と、庭前に散在する一々の残礎 とによりて空しく之を偲ぶべきのみ。 ただ本尊十一面観音ありて、今もこの寺の名をして高からしむ。 依つて想ふに、ここに録したる四首の歌は、この像を天平 盛期の製作とし、ことにこの皇后の在世の日に来朝したる異国美術家の手に成りし写生像なりとして、専門史家の間にも信ぜられたる明治時代に、これらの甘美 なる伝説に陶酔して、若き日の作者が詠じたるものなり。 されど、この寺の最初の本尊が、この観音像よりも一時代早き丈六(ぢやうろく)の如来像なりしこと は、『諸寺縁起集』『元亨釈書』(げんかうしやくしよ)などに明かなるのみならず、現に同寺に丈六型の如来像の頭一個と、脇侍(けふじ)のものと見ゆる天 部像の頭二個を有することを併せて考ふべきなり。 うつしみに・現身に。 この像に対すれば、皇后を目(ま)のあたりに見るが如しといふなり。 伝説によれば、北天竺の乾陀羅国(ケンダラコク)の王が、遥にこ の皇后の絶世の美貌を伝へ聞き、彫刻家にしてその名を文答師(モンダフシ)といふものを遣はして、皇后に請ひて写生して作らしめたる三躯の肖像のうち、一 躯は本国に持ち帰り、他の二躯はこの国に留め、この寺と施眼寺とに安置されたりといふこと『興福寺流記』(コウフクジルキ)『興福寺濫觴記』(ランシヤウ キ)などに見ゆ。 この施眼寺今すでに在らず、その像また行く所を知らざるも、『興福寺濫觴記』に引けるその寺の『流記』の一節によれば、像は一度賊のために施眼寺より盗み 去られしも、たまたま興福寺の僧寿広の獲(う)るところとなり、天長二年(825)これをその寺の西金堂に安置せりといひ、また皇后在世の日、我が歿する 後六十余年にして、この肖像の、この寺に帰すべきを予言せられたりといへり。 その事甚だ妄なるが如きも、今もし此の像の様式を以て、天長二年の製作となさ ば、人多くこれを怪しまざるべし。 この伝説の中には深く寓するところあるに似たり。 法華寺温室懐古 ししむら は ほね も あらは に とろろぎて ながるる うみ を すひ に けらし も からふろ の ゆげ たち まよふ ゆか の うへ に うみ に あきたる あかき くちびる からふろ・光明皇后は仏に誓ひて大願を起し、一所の浴室を建て、千人に浴を施し、自らその垢を流して功徳を積まんとせしに、九百九十九人を 経て、千人に至 りしに、全身疥癩(かいらい)を以て被(おほ)はれ、臭気近づき難きものにて、あまつさへ、口を以てその濃汁(のうじふ)を吸ひ取らむことを乞ふ。 皇后意 を決してこれをなし終りし時、その者忽ち全身に大光明を放ち、自ら阿しく(門がまえの中に人がしら、その下に「人」が二つ横並び)如来(アシクニヨライ) なるよしを告げて昇天し去りしよし、『南都巡礼記』『元亨釈書』その他にも見ゆ。 「からふろ」に往々「唐風呂」の字を充つれども、蒸風呂にて水無きを「から」といひしなるべければ、「空風呂」を正しとすべし。 現にこの寺の庭上にありて 皇后を記念すと称する一宇の浴室は蒸風呂なり。 また法隆寺の北方の民家にも、かかる浴場を営みて「からふろ」と称するものあり。 また『和州旧跡幽考』には「法華寺の鳥居のたつみ、わづかに隔りて、田の中に松の一木ありし所ぞ、阿しく(前出と同じ。 以下も同じ)寺の跡なる。 当代は鳥 居もなく、松も見えず」とあり。 この阿しく寺こそは、この奇蹟を記念せんために、皇后が建てしめられしものと云ひ伝へ、なほこの所にこの寺の浴場の遺物と て、大石槽の破片ありしを、天正年中(1573-1591)郡山城の築造に石垣の材料にと運び去られしといふこと『法華尼寺縁起』その他に見ゆれば、特殊 なる浴室の存在せしことは考ふるに足るべきも、阿しく仏出現の奇蹟は今にして論議にも及ばざるべし。 からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を ひと に すはせし ほとけ あやし も ししむら・肉体。 「しし」といへば、本来獣肉の意味なりしを、古き頃より「ししづき」など人体のことにも用ゐらる。 あやしも・霊異なり、怪奇なり、不可思議なりといふこと。 「も」は接尾語。 秋篠寺にて たかむら に さし いる かげ も うらさびし ほとけ いまさぬ あきしの の さと 秋篠寺・あきしのでら。 生駒(いこま)郡平城村秋篠にあり。 今は浄土宗。 奈良電車平城駅より西一キロ。 平城京の西北の角。 光仁天皇の命にて 宝亀十一年 (780)善珠僧正(723-797)の開基。 もとは七堂伽藍の備はれる大寺なりしも、保延元年(1135)の火災にて講堂以外悉く焼亡し、後再建せられ しも、また兵火に遇ひ、現在は講堂のみ本堂として遺り、寺地も甚だしく狭隘(けふあい)となれり。 京都なる宮廷の御修法(みずほふ)に因縁深かりし鎌倉時 代製作の大元帥明王(だいげんみやうわう)像は、今も寺中に鎮座すれども、その堂は近年の造立(ざうりふ)に変れり。 作者が初めてこの寺を訪ねたる時は、住職と見ゆる一人の高齢の僧ありて、明治初年頃、このあたり諸寺窮乏のさまを詳(つまびら)かに語れる中に、仏像の多 きに人手無くして供養に遑(いとま)あらぬ寺々にては、夜陰に出でて仏菩薩の像をひそかに他寺の境内に棄て、あるひは他より棄てられしものを、更にまた他 に棄てに行きしなどし、甚しきは、それらの破片粗略にせんことも勿体(もつたい)なしとて、据風呂の薪となしたるもありと云々(うんぬん)。 その僧の語れ るところは、世に「ほとけ風呂」といひ伝へたるものありしことの偽(いつはり)ならぬを示せり。 かげ・太陽の光をいふ。 陰影にはあらず。 ほとけいまさぬ・この歌を詠みしころには、この寺の救脱菩薩(グダツボサツ)、伎芸天、梵天など、美術として世に聞えたる諸像は多くは博物館などに寄託し て、堂内は甚だ寂しかりしをいふ。 まばら なる たけ の かなた の しろかべ に しだれて あかき かき の み の かず かきのみのかず・累々として赤き柿の梢は、秋篠より西京(ニシノキヤウ)のあたりにかけて、晩秋の特異なる一景観なり。 あきしの の みてら を いでて かへりみる いこま が たけ に ひ は おちむ と す いこまがたけ・生駒山。 大和と摂津との境にあり。 高き山にあらねど、姿よろし。 『新古今集』に載せたる西行(1118-1190)の歌に 「秋篠や外山(ト ヤマ)の里やしぐるらん生駒の岳に雲のかかれる」といふは、よく実際の景致を捉(とら)へたり。 西大寺の四王堂にて まがつみ は いま の うつつ に あり こせど ふみし ほとけ の ゆくへ しらず も 西大寺・さいだいじ。 生駒郡伏見村字西大寺にあり。 電車は西大寺駅。 寺は称徳天皇が天平神護(じんご)元年(765)の創建にして、当時は 薬師、弥勒(み ろく)の両金堂以下、伽藍の内外を厳飾して華美を極めたることは、宝亀十一年(780)に記録せるこの寺の『資財流記帳』を精読すれば明かなり。 しかる に、その後、承和(じようわ)十三年(846)以来数度の火災にかかりて、衰廃に就き、鎌倉時代には、叡尊(1201-1296)この寺に住みて法運の恢 興(くわいこう)に努めしも、寺は文亀二年(1502)罹災して再び頓挫(とんざ)し、今に存する諸堂は、悉く江戸時代の建立となり、天平の面目は地を払 ひて失はれたり。 今は真言律宗。 四王堂・堂の名は奉安せる四天王像より来れり。 創建の初め、それらの像の鋳造に幾度か失敗したるために、称徳天皇自ら寺に臨み、手づから熔銅(ようどう) を攪拌(かくはん)して工程に助力して、やうやく完成に至りしといふ。 最初のものは七尺の銅像なりき。 まがつみ・邪鬼。 最初の四天王は、おのおの、型の如く脚下に邪鬼を踏み鎮めて立ちしを、今は、その原作の四体は亡び去りて、後世の拙き補作がこれに 代り居るに、その脚下なる邪鬼どもは、多少の損傷は、ともかくも、いづれも原作のものが今日まで遺れること、まことに皮肉とも見ゆべし。 ことにその後補の 四天王のうちの一躰は、短小貧弱なる木像となれるは、最も憐むべし。 作者はこの現状に感じてかく歌へるなり。 いまのうつつに・今の現実に。 現実なる今日に。 ありこす・今日までその存在を続け来たれりといふこと。 「あり」は、さきに「ありたたす」あり、ここなる「ありこす」、また「ありがよふ」など、すべて同 じ語勢なり。 ただ『万葉集』の「ありこす」には希願の意味を含めるも、作者のこの場合は、「勝ち越す」「借り越す」などの「こす」にて、意味は同じからざ るなり。 我等が『万葉集』の歌に於て貴(たふと)ぶものは、その詠歌の態度と声調とにあり。 千年を隔てて語義の変遷は免かるべきにあらず。 またこれを避く べきにあらず。 ことに又、造語は、時には作者の自由として許さるべきことにもあれば、ひたすら幽遠なる上古の用例にのみ拘泥(こうでい)して、死語廃格を 墨守すべきにあらず。 新語新語法のうちに古味を失はず、古語、古法のうちにも新意を出し来るにあらずんば、言語として生命なく、従って文学としても価値な きに至るべし。 菅原の喜光寺にて ひとり きて かなしむ てら の しろかべ に きしや の ひびき の ゆき かへり つつ 喜光寺・一名菅原寺。 法相宗。 伏見村菅原にあり。 養老六年(722)行基(ぎやうき)(670-749)の創基にして、天平七年その寂(じやく)するとこ ろといふ。 今の金堂は応永年間に建てられしものなるも、創建の土壇と旧礎との上に、天平式の細部を以て造立されたれば、俗間にては「大仏殿試みの雛形」な りと誤伝さるるを、作者は俗間にてしばしば聞きしことあり。 事実を反対にせるが面白しともいふべし。 かなしむ・作者が、この歌を詠みしは、この寺の屋根破れ、柱ゆがみて、荒廃の状目も当てかねし頃なり。 住僧はありとも見えず。 境内には所狭きまでに刈稲の 束を掛け連ねて、その間に、昼も野鼠のすだくを聞けり。 すなはち修繕後の現状とは全くその趣を異にしたりき。

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珍 かすが たまる

【特集】 えすぷれっそ あめりかーの るーぷえっくすてん 東京都港区海岸3丁目9-15 いちだん 東京都大田区大森東1丁目16-22赤峰ビル れすとらんまるもらーだ 東京都港区高輪3-13-1 グランドプリンスホテル新高輪 B1F 窓外から陽射しが入り込む明るい雰囲気のダイニング。 朝食、ランチ、ディナーそれぞれにビュッフェを実施。 ランチ、ディナーではアメリカやフランスなど、世界各国の料理を月替わりで揃える。 ランチでは、風味豊かなゴマだれの鯛茶漬けが小鉢3品と甘味付きで1500円とお得に楽しめる。 ドリップでいれるコーヒーと、こだわりのフードメニューが好評。 スパイスがきいたキーマカリーやミートローフサンドなど。 キーマカリー(サラダ付)=680円/ 東京都千代田区内神田3-12-9 そばおう 東京都多摩市関戸1丁目10-10 かんこくりょうり ポジャンマチャ 東京都北区赤羽2 落ち着く韓国料理店 一押し海鮮チヂミ かさもーつあると 東京都渋谷区神宮前1丁目10-23 わせだだいがくせいかつきょうどうくみあい がくじょうきっさ 東京都新宿区西早稲田1丁目6-1 すてっぷ 東京都立川市錦町4丁目7-6 ふくめすし 東京都杉並区松庵3丁目1-13 ありぞなきつちん 東京都台東区浅草1丁目34-4 ちゅうかようしょくいちばん 東京都東村山市本町3丁目8-1 ぶりゅっと 東京都新宿区新宿3丁目8-9平生ビルディング いせひろし ほてるにゅーおーたにてん 東京都千代田区紀尾井町4-1 あじろ 東京都江戸川区一之江7丁目29-23 しろー 東京都新宿区住吉町5-8 ぎぃおっとーね 東京都豊島区西池袋3-27-12 ウエストパークビル 1F ローマ風料理が味わえるイタリアンレストラン。 ボリューム満点のアラカルトは約30種類以上。 さわやかな酸味のトマトソースは自慢の味。 ピッツァは1370円から楽しめる。 魚介入りトマトソースのスパゲッティ=1580円/ピッツァ=1370円~/渡り蟹のスパゲッティ=1380円/ かふぇころらど なかめぐろてん 東京都目黒区上目黒2-1-3中目黒GTプラザ いざかやせんて 東京都江東区東陽1丁目15-3 あじのよこづな 東京都荒川区南千住2丁目1-1 東京都中野区中野5-56-11白百合ビル1F あかぎ 東京都豊島区池袋2丁目69-1新井ビル 東京都豊島区東池袋1丁目20-2池袋ホワイトハウスビル いちばんや 東京都千代田区飯田橋1丁目9-6朝日飯田橋マンション1F105 まことすし 東京都江戸川区東葛西6丁目15 むらさき しぶやにーよんろくてん 東京都渋谷区渋谷2 2. 5H[飲放]鍋付9品3500円 2H[飲放]8品2980円~ しんせんこうぼうあじし 東京都多摩市諏訪2丁目12アクロスビル 縺? 譚ア莠ャ驛ス譁ー螳ソ蛹コ隘ソ譁ー螳ソ7-14-11譟乗惠迚? 。仙ア九ン繝ォ1F? イ とんぼ 東京都江東区豊洲4丁目1-2豊洲TOSKビル いつさ 東京都立川市曙町1丁目31-1カーロビル きっささんきゅー 東京都豊島区西池袋1丁目19-1 とくとうせき 東京都府中市宮西町2丁目11-11岩本ビル いずみ 東京都中央区日本橋人形町3丁目1-5 のんきや 東京都墨田区立川4丁目11-10 すみや 東京都港区六本木3丁目11-10-6Bココ六本木ビル 縺九h縺?? 縺ェ 譚ア莠ャ驛ス蜊? サ」逕ー蛹コ螟也・樒伐? ザ・ケーキバイキングは約20種類のデザートやマイナス25度に冷やされた大理石の上で作るコールドマーブルアイスクリームが好評。 ここに来たらまず『たこおでん』!! 東京都品川区中延5丁目7-11 まんりきやあざぶじゅうばんてん 東京都港区麻布十番2丁目3-2 でんでんゆめし 東京都中央区京橋3丁目6-8茅ケ紡ビル すしたつ 東京都板橋区成増4丁目13-25メゾン坂本1F101 すてーきはうすてる 東京都中央区八重洲1丁目5-10井門八重洲ビル しぇふさくらいのためいけしょくどう 東京都港区赤坂2 【溜池山王駅1分】15名~貸切OK!2H[飲放]5000円~ なだいとんかつかつくらきょうとさんじょうせいじょうこるてぃてん 東京都世田谷区成城6 テイクアウト 京都が認める老舗の味 つばきやこーひーてん ゆうらくちょうさりょう ゆうらくちょういとしあ 東京都千代田区有楽町2 最高の珈琲と大正ロマンの空間でおもてなし。 心休まるひとときを。 いざかやだいにんぐ おだいどこ はちおうじきたぐちごばんがいどおりてん 東京都八王子市東町10-4HKビル4F すしこうかぐらざか 東京都新宿区神楽坂3丁目1 わらわら こいわきたぐちえきまえてん 東京都江戸川区西小岩1 女子会実施中!! 気の合う同士のおしゃべり 南島館 東京都大島町元町1-17-7 ぶらじりえ 東京都新宿区西新宿6丁目11-3 ますだやにしちょうふてん 東京都調布市上石原2丁目30-31 るぶるたーにゅかぐらざかてん 東京都新宿区神楽坂4-2 コンフォート神楽坂 1F ブルターニュ地方の伝統料理ガレットを楽しめる店。 芳ばしい香りとモチモチした食感がくせになる。 四季折々の旬の食材を使い、独自にアレンジしたイタリア料理を用意。 ワインは350種類を常備している。 料理はコースが中心。 ワインも手頃でおいしいものがそろう。 気鋭のシェフ宇賀神崇氏がつくり出す本格的イタリア料理は、味はもちろん見た目の美しさにも定評がある。 テラス席もおすすめ。 てんりゅう 東京都小平市学園東町3丁目1-6 しんしゅうやしぶやてん 東京都渋谷区道玄坂2丁目6-4 ぎんざかんこくしょくどうとぉんでじ 東京都中央区銀座8丁目19-18第三東栄ビル ぷらちな 神奈川県横浜市青葉区市ケ尾町1053-7-202 縺ィ繧ゅ@縺ウ 譚ア莠ャ驛ス譁ー螳ソ蛹コ譁ー螳ソ? 抵シ撰シ搾シ厄シヲ? 安全でおいしく、ヘルシーなメニューを提供。 提携農家「ビオフォームまつき」のジュースや「ママ・シフォンスタジオ」のケーキを楽しめる。

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