すえ あらた 神社。 新屋山(あらややま)神社は最強パワースポット!拝み方や行き方は?

陶荒田神社 堺市中区上之

すえ あらた 神社

陶荒田神社 堺市中区上之 陶荒田神社 大阪府堺市中区上之1215 鳥居 交通 泉北高速泉ヶ丘 北東1.5km 祭神 高魂命、劔根命、八重事代主命、菅原道真公 摂社 山田神社「活玉依姫命」 戎殿「八重事代主命」 弁天社「市杵嶋姫命」 太田神社「太田々弥古命」 玉の緒神社「天御中主命」 由緒 かっての住居表示は陶器村大字太田字上之である。 陶器はスエキと訓む。 この神社の森は太田の森と言う。 『崇神紀七年』の大和の三輪の神大物主神を祀った陶村の大田田根子命に関わる地名である。 大田田根子の父は大物主神、母は陶津耳の娘の活玉依姫命。 『古事記』では大物主神の四世孫。 拝殿 大和巻向の大田に鎮座する神社は式内社の天照御魂神社に比定されている。 紀の国名草の大田には日前国懸神宮が鎮座、共に日の神と由縁が深い。 大田命は猿田彦神とかその後裔とされるが、やはり日の神を祀り、移動を助けた神である。 「大田」と日の神、この陶器邑の大田田根子命も三輪の大神を祀ったとの強い伝承が残っている所から見ると、三輪の神も日の神の片鱗があったものと思われる。 現に、大和の幾つかの神社配置と三輪山からの日の出についての関連はつとに指摘されている。 この陶荒田神社と配置と三輪山とはどのような関連が見て取れるのだろうか。 参詣時には直接には三輪山を見ることはできなかった。 それよりも金剛、葛城、それから思ったより離れて二上山がよく見えた。 二上山の南側に竹内街道が通るが、遮る山のないこの峠越に三輪山が見えても不思議ではない。 三輪山が見えるライン上の高地で、かつ陶器生産の適地(粘土、木材)に神社が出来たと言うことであって、それがここの神社の神主だった大田田根子命が三輪山の祭祀に招かれた伝承となったのではなかろうか。 渡来人の陶器をよくする技術者達を配下に組み入れるべく、三輪君や鴨君が赴いたのであろう。 『古事記』によると大田田根子命は三輪君や鴨君の祖となっている。 大田田根子命は河内の美努村にいたことになっている。 この神社は上之でその東に見野山と言う地名が残る。 陶器生産の遺跡が多い。 また八尾市上の島町に御野県主神社が鎮座、この辺りとも言われているが、三輪山が見える訳でもない。 どうやら、時のハイテク生産基地の見野山付近でいいのだろうが、面白いのは「上之」「ミノ」が共通に出てくる 荒田であるが、葛城国造の祖である「葛城の土神の劔根命」を祖とする荒田直を思わせるが、鴨氏の本拠地は葛城であり、地縁で結びついているとの『日本の神々3』で大和岩雄氏は述べておられる。 本殿 初詣の為の準備と整美作業が女性陣の手によって行われていた。 神社の森は遠目にも濃密に見えている。 社域も広く、おだやかな佇まいを感じる。 梓弓 末のはら野に 鳥猟する 君が弓弦の 絶えむと思へや (巻十一 二六三八) 末のはら野 の「末」を「陶」として、当地で詠われたものとしたようだ。 由緒 平成祭礼データから 陶荒田神社(すえあらたじんじゃ) 陶荒田神社は崇神天皇の七年(西紀前九0年)の創建にかかり、延喜式(西紀九0五 年制定)にも載っている古社であります。 素盞嗚命十世の孫大田々禰古命が勅命を奉 じて大和国大三輪大神を奉斎する大神主となられました時に、祖先の神霊を斎き祀る ため、この陶村すなわち茅淳県(今の堺市付近)陶器郷の大田森に社を建立されたの が当社の起源であります。 当社の付近に古代人の集落の跡や、付近に住んだ豪族たち の墳墓と思われる陶器千塚が現存していましたが、現在は泉北ニュータウン等の土地 開発によりその一部しか残されていません。 陶荒田神社は陶器の守護神としても、こ の陶邑重要の地に鎮座ましましたことが推定されるのであります。 社名陶荒田の由来 は祭神高魂命五世の孫剣根命の後に「荒田直」という人が出られ、祖神の奉斎につと められたによって、地名の陶と人名の荒田とをとって「陶荒田」と名付けられたので あります。 以来当社は陶器郷の氏神として朝野の崇敬厚く、且つ陶器の生産に携わる 業者の守神として又衣食住(生活の神様)の守護神として崇拝を受け尊敬されて連綿 として祭祀を続けております。 お祭り 10月10日 3日間 例祭 だんじり.

次の

五十猛命:玄松子の祭神記

すえ あらた 神社

>>>巻之五 第十四冊 巻之五 玉衡之部 (このページです) (準備中) 江戸名所図会 巻之五 玉衡之部 第十四冊 江戸時代の風景 現在の様子 聖堂 (江戸名所図会より) 聖堂(せいどう)とは現在の湯島聖堂のことで、上の挿絵には次のように書かれています。 新葉集 釈尊 から人の むかしのかげを うつし来て あふげば高き 秋の夜の月 妙光寺内大臣 挿絵の右上に「大聖殿」が、その前に「杏壇門」、さらにその前に「入徳門」、その付近に「梅檀」、「井」があります。 右下に「仰高門」、「装束所」があり、聖堂の右に「昌平坂」があります。 手前の川は「神田川」です。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、湯島聖堂境内のマップです。 右は、湯島聖堂の大成殿(たいせいでん)です。 江戸名所図会の大聖殿のことかと思われます。 右は、湯島聖堂の杏壇門(きょうだんもん)です。 右は、湯島聖堂の仰高門(ぎょうこうもん)です。 神田明神社 (江戸名所図会より) 上の神田明神社(かんだみょうじんのやしろ)の挿絵には次のように書かれています。 暮景集(ぼけいしゅう) 深夜の帰雁(きがん)といふことを神田の社にて各々よみはべるとき 鳴きつれて 声よりこゑも ますらおの こころにかへる 夜半のかりがね 太田資持(持資とは太田道灌のこと) 左下の「門前板橋街道」にある鳥居を潜り参道を進むと「楼門」がありその先に「本社」があります。 楼門の内側には、本社を囲むように反時計回りに、「揚弓」、「湯立所」、「茶屋」、「稲荷」、「ほうさう(疱瘡)神」、「山王」、「猿田彦」、「人丸」、「大黒」、「住吉」、「三峯」、「八幡」、「太神宮」、「すは(諏訪)」、「三峯」、「みこし蔵」、「御供所」、「三しま」、「いなり」、「牛頭天王三社」があります。 江戸名所図会の本文の説明では、神田大明神社は、江戸総鎮守で、大己貴命(おおあなむちのみこと おおなむちのみこと 大国主命)と平親王将門霊(へいしんおうまさかどのれい)の二座が祭神で、江戸時代の初期に駿河台へ、更に現在の場所へと遷ったとのことです。 祭礼は隔年の9月15日でした(現在の神田祭とは日にちが異なります)。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、神田明神のマップです。 右は、神田明神の鳥居です。 このあたりの道は整理されており、現在の本郷通りは江戸時代の門前板橋街道とはすこしずれているのではないかと思われます。 右は、随神門(ずいしんもん)です。 江戸名所図会の楼門にあたるものと思われます。 右は、拝殿です。 図会の本社です。 図会で、本社の周囲にたくさんの境内社が並んでいますが、上の境内マップからも分かるようにこの様子は現在も同じです。 その中に、合祀殿があり、ここには、諏訪神社、八幡神社、他が合祀されています。 神田明神祭礼 (江戸名所図会より) 其二 (江戸名所図会より) 其三 (江戸名所図会より) 其四 (江戸名所図会より) 上の挿絵の其一には「神田明神 祭礼 隔年九月十五日に 執行(とりおこな)ふ氏子の 町々より練物(ねりもの)車楽(だし)等を出す中にも 大江山凱旋 牛若丸奥州下(くだり) 朝鮮人来朝の学びなとは 殊に遠近に聞へて 其名高く 最(もっとも)美観たり」とあります。 挿絵の其二には「花すゝき 大名衆を まつりかな 嵐雪」とあります。 江戸名所図会の本文では、祭礼は隔年9月15日で、永田馬場山王神社(現在の赤坂の日枝神社)を第一とし、当社はこれに次ぐものとし、幕府公認で、練物(ねりもの)楽車(だんじり)を飾りたて、街中を練り歩き、江戸中の人が貴賎を問わず桟敷をかけて見物した、とあります。 神田明神のお祭りである神田祭りは、日本三大祭の一つ、江戸三大祭りの一つに数えられ、「天下祭」として知られ、現在、隔年で5月中旬に行われています。 江戸時代は左の挿絵の其四にあるような山車も多数出たようですが、明治に入り、電線のためなどで山車はなくなり、御輿中心になったようです。 右は、神輿が練り歩く神幸祭の様子です。 Wikipediaから借用しました。 右は、神田明神の境内に置かれている山車です。 山車の上部です。 円満寺 (江戸名所図会より) 上の挿絵には、 円満寺(えんまんじ)、俗に木食寺(もくじきでら)といえり、とあります。 「仁王門」、「多宝塔」、「本堂」、「護摩堂」が見えます。 画面右側には境内社、「あきば」、「えびす」、「べんてん」、「だいこっく」、「いなり」、「じぞう」があります。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 中央少し左下です。 円満寺は現在ビルの中にあるようですが、現在、そのビルは右の写真のように改装中でした。 霊雲寺 (江戸名所図会より) 霊雲寺(れいうんじ)の挿絵には次のように書かれています。 大悲心院 花を見はえりて 灌頂の 闇より いでて さくらぎや 其角 右下の「惣門」から入り、左に曲がるところに「鐘楼」があり、その先に「灌頂堂」、その左奥に「開山堂」があり、その更に奥には「大元堂」、「方丈」があります。 画面左端には境内社、「賀茂、いなり、八まん」が見えます。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、霊雲寺の総門です。 右は、霊雲寺の本堂です。 境内のすべての建物は関東大震災で消失しているようです。 境内の基本的な配置は、絵図の時代とほぼ同じなのではないかと思われます。 妻恋明神社 (江戸名所図会より) 上の挿絵は妻恋明神社(つまこいみょうじんのやしろ)です。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は妻恋神社の鳥居です。 右は妻恋神社の本殿です。 参道が直角に折れていますので、おそらく、江戸名所図会の時代と同じ配置なのではなかろうかと思われます。 湯島天満宮 (江戸名所図会より) 上の、 湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)の挿絵には、次のように書かれています。 月毎の二十五日には植木市(うえきいち)ありて、殊更(ことさら)にぎわしく一時(いちじ)の壮観なり 表門の通り左右に料理茶屋あり 挿絵の右に「鳥居」があり、参道の先に「拝殿」があります。 拝殿の周囲には時計方向に、「神楽殿」、「いなり」、「かん音」、「戸隠」、「本社」、「茶屋」、「じぞう」があります。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、境内マップです。 湯島天神の公式サイトから借用しました。 右は、湯島天神の鳥居です。 右は、拝殿です。 麟祥院 (江戸名所図会より) 上の麟祥院(りんしょういん)の挿絵には次のように書かれています。 いやたかき きみのめぐみの かすが山 よもに朝日の 光そえつつ 烏丸光廣卿 麟祥院は大変広い境内を持っています。 絵の中央下に「惣門」があり、参道の先に「本堂」、「鐘楼」、「庫裏」があります。 本堂の左には、「禅堂」、「開山堂」、「いなり」があります。 絵の右下には「塔中」が見えます。 江戸名所図会の本文には、「舊(もと)天澤寺(てんたくじ)と称せしが、春日局(かすがのつぼね 三代将軍家光の乳母)の法号を取って麟祥院とあらたむ」、本尊は釈迦如来で、「本願(ほんがん 創立した人を表す本願主のこと)は春日局なり」とあります。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、麟祥院の惣門です。 惣門をくぐって現れる広い境内は手入れがとても行き届いています。 右は、本堂です。 このお寺は、臨済宗妙心寺派です。 右は、麟祥禅堂です。 図会の絵の禅堂にあたるものかと思われます。 左に書いたように、麟祥院の開基は春日局で、ここには春日局の墓所があります。 右の写真です。 なお、麟祥院の前の道は春日局に因み春日通りと呼ばれています。 根生院 (江戸名所図会より) 上は、 根生院(こんしょういん)の挿絵です。 錦帯圓 (江戸名所図会より) 上は、錦帯圓(きんたいえん)の挿絵です。 東叡山黒門前 忍川 三橋 (江戸名所図会より) 上の挿絵は、 東叡山黒門前(とうえいざん) 忍川(しのぶかわ) 三橋(みはし)です。 中央に三橋があり、中央広い道は下谷広小路です。 中央左下から右上に、不忍池につながる忍ぶ川が流れています。 画面中央には「しのぶ川」、「三はし」があり、その左には、「二王門跡」、「下馬」があります。 左下の町並みは「仲町」となっています。 「三はし」の左側の町並みには「此辺薬屋多し」とあります。 黒門は、二王門跡の左に側に当たりますが、この絵には明示されておらず、下の絵に描かれています。 この辺りは下谷広小路と呼ばれていました。 この広い道は、類焼防止のための火除け地であり、また、将軍が上野寛永寺に参詣する時の御成道でもありました。 現在の上野広小路です。 忍はすの池 中島弁財天 (江戸名所図会より) 上の挿絵は、忍はすの池(しのばずのいけ) 中島弁財天(なかじまべんざいてん)です。 一つ上の欄の絵につながっています。 挿絵の中央に、「弁天]、[聖天」、「こま堂」があります。 池の向こう岸の先に「穴のいなり」があり、その右に「黒門」があります。 遠景には右から、「山王」、「清水」、「山門」、「中堂」があります。 この池は、上野台地が忍岡(しのぶがおか、しのぶのおか)と呼ばれたことから、江戸時代以前から不忍池と呼ばれていたようです。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、不忍池です。 蓮が伸びており池が見えませんが、写真中央の左側に見える緑色の屋根が弁財天です。 弁財天は中島にあります。 右は、大黒天堂で、挿絵の「こま堂」(護摩堂)です。 不忍池 蓮見 (江戸名所図会より) 上の、不忍池(しのばずのいけ) 蓮見(はちすみ)の挿絵には、次のように書かれています。 不忍池は江府(えど)第一の蓮池(れんち)なり。 夏月(かげつ)に至(いた)れば荷葉(かよう)累々(るいるい)として水上(すいじょう)に蕃衍(はんえん)し、花は紅白(こうはく)色(いろ)をまして芬芬(ふんぷん)人を装う。 蓮(はちす)を愛するの輩(ともがら)凌晨(しののめ)を殊更(ことさら)の静観(せいかん)とす 東叡山寛永寺 桜が峯 山王社 (江戸名所図会より) 上の挿絵は、東叡山寛永寺(とうえいざん かんえいじ) 桜が峯(さくらがみね) 山王社(さんのうのやしろ)です。 この絵に続く5枚の絵はパノラマのように繋がっています。 何枚か上の不忍池の絵にある、「黒門」の先(北側)から「中堂」迄が詳細に描かれていることになります。 挿絵には、次のように書かれています。 山内(さんない)桜木(さくら)多き中にも、此辺(このへん)を桜が峯(さくらがみね)と号(ごう)し、其むかし羅山先生(らざんせんせい)栽(うう)るところなるよし、鵞峰文集(がほうぶんしゅう)にいえり 挿絵の左に「山王」、その後ろに「いなり」、「棍生明神?」があり、中央下には「黒門」があります。 遠景には左から、「観音」、「浅草」、「門跡」、「下谷」が見えます。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 絵にある山王社は現在存在しませんが、地図の赤い円の辺りでした。 現在そこには西郷隆盛の像があります。 右は、その西郷隆盛の銅像です。 其二 清水観音堂 秋色桜 (江戸名所図会より) 上の、 其二 清水観音堂(きよみずかんのんどう) 秋色桜(しゅうしきさくら)の挿絵には以下のように書かれています。 秋色桜は清水堂の御供所(ごくうしょ)構(かまえ)の内、井のかたわらにあり。 花は一種(いっしゅ)にして虎尾(とらのお)と称(しょう)するもの是(これ)なり。 中頃(なかごろ)江府(えど)の商戸(しょうこ)某(なにがし)の女(むすめ)秋色(しゅうしき)といえるもの、花のころここに来たり、「井戸(いど)ばたの 桜あぶなし 酒(さけ)の酔(よい)」といえる秀句(しゅうく)ありしより、名づくるとなん 木のもとに 汁も鱠も さくらかな 芭蕉 挿絵の右手前から順に「秋色桜]、[御供所」、「観音堂」とあり、中央上に「本覚院」があります。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、清水堂(清水観音堂)です。 上の地図の赤い円の部分にあります。 京都の清水寺を模したお堂です。 其三 (江戸名所図会より) 上の 其三には、中央の少し下に、「文殊楼」、「大仏」、「吉祥天、七面」、「時のかね」、「番所」があり、さらに右下には「穴稲荷道」とあります。 画面上部には、右から、「凌雲院」、「「車坂」、「四軒寺町」とあります。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 現在、文殊楼はありません。 右は、時の鐘です。 上の地図の赤い円とオレンジ色の円の間辺りにあります。 時の鐘は、江戸時代、庶民に時間を知らせるための手段でした。 右は、大仏で、上の地図のオレンジ色の円の辺りにあります。 もともとは左の絵の大仏殿に置かれていたようですが、地震や火災のため首が落ち、現在は顔だけが保存されているのだそうです。 右は、花園稲荷(忍岡稲荷、穴稲荷)の鳥居です。 上の地図の赤い円の辺りです。 其四 (江戸名所図会より) 上の 其四には、右側に「常行堂」、「法華堂」、手前に「鐘楼」があります。 さらに進むと「勅額門」、その先が「中堂」です。 勅額門の前の左右には「輪蔵「、「雲水塔」があり、それぞれに「番所」があります。 本堂の前には「石楠」、「竹台」があります。 遠景には右から「屏風坂」、その左に「慈眼堂」があります。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 現在、常行堂、法華堂はありません。 ここは、今、噴水公園になっています。 上の地図のオレンジ色の円の辺りに野口英世の銅像があります。 江戸名所図会の慈眼堂は開山堂とも呼ばれ、現在は輪王寺となっています。 右の写真は開山堂の山門です。 右は開山堂の本堂です。 其五 (江戸名所図会より) 上の 其五の挿絵には、右手前に「寒松院」があり、右上から左へ順に、「こま堂」、「大師堂」、「御玄関」、「御本坊」、「庫裏」があり、右下には、「亀子松」、「弁天」、「児いなり」、「二本杉」、「日長原」、「寒松院」があります。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 挿絵の上中央辺りは、現在、東京国立博物館になっています。 この辺りには、昔の建物がほとんど残っていませんが、挿絵の中央少し上にある門(「御玄関」に至る門)は、上の其四の欄で書いた開山堂の東側に移して保存されています。 旧本坊表門です。 挿絵の右下にある寒松院は、現在の東京技術大学美術学部の辺りにあったようですが、現在は、東京国立博物館の東側で開山堂の北側に移っています。 忍岡稲荷社 (江戸名所図会より) 上の挿絵は、忍岡稲荷社(しのぶのおかいなりのやしろ)です。 当時は穴稲荷とも呼ばれたようですが、現在の花園稲荷に当たります。 忍岡稲荷社、現在花園稲荷神社と呼ばれ、右の地図の赤い円の辺りにあります。 右は花園稲荷神社の拝殿です。 東叡山 勧学寮図 (江戸名所図会より) 上の挿絵は、 東叡山(とうえいざん) 勧学寮図(かんがくりょうのず)です。 当山の檀所だったそうです。 開山堂 法華八講 (江戸名所図会より) 上の挿絵は、 開山堂 法華八講(ほっけはっこう)です。 開山堂は、上の「其四」の欄に、慈眼堂として書かれています。 両大師遷座 (江戸名所図会より) 上の、両大師遷座の 挿絵には以下のように書かれています。 月毎(つきごと)の晦日(みそか)には、両大師(りょうだいし)の御影を次の院(いん)遷座(せんざ)なし奉(たてまつ)る。 是(これ)を将迎(おくりむかえ)奉(たてまつ)らんとて、江府(えど)遠近(えんきん)の諸人(しょじん)群参(ぐんさん)して道路(どうろ)に溢(あふ)る。 実(じつ)に此地(このち)熱?(にぎやか)の中(うち)最(もつ)とも首(しゅ)なるへし 清水堂 花見図 (江戸名所図会より) 上の、 清水堂(きよみずどう) 花見図(はなみのず)の 挿絵には、次のように書かれています。 上野清水堂にて 鐘かけて しかもさかりの 桜かな 室井其角 清水堂(清水観音堂)は、上の方の、「其二 清水観音堂 秋色桜」の欄に書かれています。 右は、清水堂(清水観音堂)を、左の挿絵とほぼ同じ方向から取った写真です。 正月三日 大黒詣 (江戸名所図会より) 上の、正月三日 大黒詣(だいこくもうで)の挿絵には以下のように書かれています。 毎歳(まいさい)正月三日は都下(とか)の諸人(しょじん)東叡山(とうえいざん)護国院(ごこくいん)の大黒天(だいこくてん)へもうづ。 此(この)御影(ごえい)は土佐の信実(しんじつ)筆なり。 世(よ)に霊験(れいげん)著(いちじる)し。 此の日供物(くもつ)の鏡餅(かがみもち)を湯(ゆ)にひたして参詣(さんけい)の輩(ともがら)にあたう。 俗(ぞく)是(これ)を呼(よん)で御福の湯(ごふくのゆ)という 蛍澤 (江戸名所図会より) 蛍澤(ほたるさわ)の挿絵には以下のように書かれています。 谷中(やなか)宗林寺(そうりんじ)の境内(けいだい)にあり、。 又、妙林寺(みょうりんじ)の池をも蛍沢(ほたるさわ)と唱(とな)う。 すべて此辺(このあたり)蛍(ほたる)の光(ひかり)他に勝(まさ)れたり 草の葉を 落るより飛 ほたるかな 芭蕉 谷中感応寺 (江戸名所図会より) 谷中感応寺(やなか かんのうじ)の挿絵では、中央の道が「芋坂口」で、「惣門」があります。 上の挿絵は、左側で次の挿絵に続いています。 其一 (江戸名所図会より) 其一の挿絵では、右側から左上に向かう参道の先に「本堂」があります。 近景の右から左に「瘡守(かさもり)いなり」、「長安寺」、「寿老人」があります。 左側中央に「西門」、「重明墓」があります。 本堂周辺には、「星降梅」、「風呂屋」があります。 挿絵の右上に「裏門」、「いなり」、「番神」があります。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 感応寺は1833年に天王寺と名前を変えており、江戸名所図会は旧名を使っています。 右は、天王寺の山門です。 上の地図の紫色の楕円の辺りです。 右は、天王寺の本堂です。 右は、五重塔跡です。 上の地図の赤い楕円の辺りです。 右は、長安寺です。 上の地図の青色の楕円の位置にあります。 右は、功徳林寺で、笠森稲荷が置かれています。 上の地図のオレンジ色の楕円の位置にあります。 右は、笠森稲荷です。 日暮里総図 其一 (江戸名所図会より) 日暮里(ひぐらしのさと)総図 其一の挿絵には、上側に「本行寺」があり、その周りに「ものみ塚」、「碑」、「番神」があります。 其二 (江戸名所図会より) 其二の挿絵では、画面右側の上から下へ、「経王寺」、「海翁塚」、「七面宮」、「方丈」、「長相寺(長明寺の誤りか?)」、「宗林寺」があります。 左側の画面には上から下へ、「養福寺」、「百観音」、「南泉寺」があります。 其三 (江戸名所図会より) 其三(挿絵では其一)には、右側上に「浄光寺」、「本堂」、「御腰掛所」、「神明」があり、中央上から下へ「すわ明神」、「番神」、「西隆寺」があります。 また、あちらこちらに「茶や」があります。 其四 (江戸名所図会より) 其四の画面右の上から下へ「日光山」、「こんぴら」、「舟つなぎ松」、「えびす」、「観音」、「青雲寺」、「修性院」があります。 画面左上側には「ほてい」、「道灌山」が見えます。 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の緑色の楕円の辺りです。 史跡の場所を丸数字で示しています。 右は、諏方神社鳥居と拝殿です。 このパネルでは「道灌舟つなぎ松」を説明しています。 道灌山 聴蟲 (江戸名所図会より) 道灌山(どうかんやま)聴蟲(むしきき)の挿絵には、次のように書かれています。 文月(ふみつき)の末(すえ)を最中(さかり)にして、とりわき名にしおう虫塚(むしつか)の辺りを奇絶(きぜつ)とす。 詞人(しじん)吟客(ぎんかく)ここに来(きた)りて終夜(よもすがら)その清音(せいおん)を珍重(ちんちょう)す。 中にも鐘児(まつむし)の音(こえ)は勝(すぐれ)て艶(うるわ)しく、莎鶏(はたおり)紡織娘(きりぎりす)のあはれなるに、金琵琶(すずむし)の振捨(ふりすて)かたく、思(おも)はす有明(ありあけ)の*を待**も一興(いっきょう)とやいはん まくり手に すずむしさがす 浅茅かな 其角 江戸名所図会の挿絵に描かれた道灌山は、右の地図の緑色の楕円の辺りを指したものと思われます。 JR山手線の内側の丘陵地帯です。 右は、南側から丘を登る道です。 右は、登りきったところで北を向いて撮った写真です。 巻之五 玉衡之部 (このページです) (準備中).

次の

ひっそりと須恵器を焼いた窯跡が・・・

すえ あらた 神社

本居宣長四十四歳自画自賛像 (部分) 安永2年(1773年) 人物情報 生誕 15年() 松坂 死没 元年() 松坂 居住 松坂 配偶者 勝(かつ) 学問 時代 中期 - 後期 研究分野 ・ 特筆すべき概念 「」 「」 「」 主要な作品 『』 『』 『』 影響を 受けた人物 、、、 影響を 与えた人物 、、、、他多数 主な受賞歴 贈 贈 本居 宣長(もとおり のりなが)は、の者・者・者・。 名は栄貞。 本姓は。 は、はじめ弥四郎、のち健蔵。 は芝蘭、瞬庵、春庵。 自宅の 鈴屋 ( すずのや ) にて門人を集めをしたことから 鈴屋大人 ( すずのやのうし )と呼ばれた。 また、、、とともに「 国学の四大人 ( しうし )」の一人とされる。 の・小津家の出身である。 概要 [ ] の文献考証と師・賀茂真淵の説を継承し 、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる。 宣長は、真淵の励ましを受けて『』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『』を著した。 『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。 本居宣長は、『』の中にみられる「」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的なの教え(「」)を自然に背く考えであると非難し 、を参考にして取り入れるを批判したとされる。 また、本居宣長は、に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。 たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」とその背景事情を勘案して厳しくを適用しないように勧めている。 本居宣長の代表作には、前述の『』のほか、『源氏物語』の注解『』、そして『玉勝間』、『(ぎょじゅうがいげん)』 などがある。 門下生も数多く『授業門人姓名録』には、宣長自筆本に45名、他筆本には489名が記載れている。 主な門人として、・・・・・(みちあきら)・・・・の(橋彦)春門父子・の・・・・・肥後の国、山鹿の・・(みさと)父子・飛騨高山の・(宣長の実子)・(宣長の養子)などがいる。 生涯 [ ] 「本居宣長六十一歳自画自賛像」 寛政2年(1790年)8月 賛文「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手づからうつしたるおのかかたなり、筆のついてに、しき嶋のやまとこころをひととはは朝日ににほふ山さくら花」 本居宣長は享保15年()6月松坂(現在の)の木綿仲買商である小津家 の次男として生まれる。 幼名は富之助。 2年()、8歳で寺子屋に学ぶ。 元文5年()、11歳で父を亡くす。 2年()、16歳でにある叔父の店に寄宿し、翌年郷里に帰る。 寛延元年()、19歳のとき、の紙商兼の今井田家の養子となるが、3年後、寛延3年()離縁して松坂に帰る。 このころからを詠み始める。 2年、22歳のとき、義兄 が亡くなり、小津家を継ぐが、商売に関心はなく、江戸の店を整理してしまう。 母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学する。 医学を・に、儒学をに師事し、寄宿してや国学などを学ぶ。 景山は広島藩儒医でを奉じたが、反朱子学のの学にも関心を示し、またの支援者でもあった。 同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻す。 この頃から日本固有の古典学を熱心に研究するようになり、景山の影響もあってやに影響を受け、国学の道に入ることを志す。 また、京都での生活に感化され、への憧れを強めていく。 宝暦7年()から松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら自宅で『』の講義や『』の研究に励んだ。 27歳の時、『』と『』を書店で購入し、の書 に出会っての研究に入ることになる。 その後宣長は真淵と文通による指導を受け始めた。 13年()、宣長は、参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し、古事記の注釈について指導を願い、入門を希望した。 その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。 真淵は、に慣れるため、『』の注釈から始めるよう指導した。 以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進む。 この真淵との出会いは、宣長の随筆『(たまがつま)』 に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。 宣長は、一時はに仕えた が、生涯の大半を市井の学者として過ごした。 門人も数多く、特に天明年間( - )の末頃から増加する。 天明8年()末までの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。 伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。 職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。 60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を激励するなどした。 寛政5年(1793年)64歳の時から散文集『玉勝間』を書き始めている。 その中では、自らの学問・思想・信念について述べている。 また、方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い、地誌を記述している。 寛政10年(1797年)、69歳にして『古事記伝』を完成させた。 起稿して34年後のことである。 寛政12年(1800年)、71歳の時、『』を刊行する。 『古事記』『風土記』『和名抄』などから地名の字音の転用例を200近く集め、それを分類整理している。 死に臨んでは遺言として、相続その他の一般的な内容の他、命日の定め方 、供養、墓のデザインまでにも及ぶ詳細で大部の「遺言書」をのこした。 これについては、やまとごころにおける死生観として以前に述べていることといささかズレがあるとして、「謎」であるとする評論もある。 旧の本居家の墓から本居宣長の霊魂を殿町の森に運び神仏の聖地が移転した。 大正4年に学問の神様として本居神社が遷座した。 ()に社号をと改称した。 その墓は近世以後、1959年(昭和34年)に松阪市内を見渡すの小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに1999年(平成11年)には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。 人物 [ ] 『古事記伝』再稿本(本居宣長記念館蔵・重要文化財) 家業を手伝うも、に熱中し商売に適していないと、母に相談して医業を学んだ。 地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動しており、かつ、寛政4年()に仕官し御針医格十人扶持となっていた。 宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。 宣長は『済世録』と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。 亡くなる10日前まで患者の治療にあたってきたことが記録されている。 内科全般を手がけていたが、小児科医としても著名であった。 当時の医師は薬()の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとした。 また、乳児の病気の原因は母親にあるとして、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。 しかしながら、あくまでその意識は「医師は、男子本懐の仕事ではない」と子孫に残した言葉に表れている。 山室町高峰のに葬られた。 コレクターで、のなど珍しいものを多く所有していた。 この駅鈴は、寛政7年(1795年)8月13日に主・が宣長の源氏物語講釈を聴講するのに先立って、自筆色紙と共に贈ったものである。 また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。 19歳の頃には架空都市「端原氏城下絵図」を描いた。 平安朝のに深い憧れを持ち、中でも『源氏物語』を好んだ。 これは、万葉の「ますらをぶり」を尊び、を「たをやめぶり」と貶めた賀茂真淵の態度とは対照的である。 読書家であると同時に、書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、「借りた本を傷めるな」、「借りたらすぐ読んで早く返せ、けれど良い本は多くの人に読んで貰いたい」、などの考えを記している。 のが子守明神として、子を与え、守る神と世間で信じられていたため、宣長の父は男子が得られるよう祈り、宣長が生まれたため、宣長自身は「水分神の申し子」として生まれたと堅く信じていた。 儒仏に対する排除を主張していた宣長だが、10代頃は思想の強い影響下にあり、『直毘霊』成立前後から排除思想が強くなった。 宣長の生涯にわたる恋愛生活は、により明らかになった面が大きい。 作品 [ ] 本居宣長先生修学之地 石碑(下京区綾小路通室町西入善長寺町)• 『本居宣長全集』は筑摩版の他に、大正期に(全12冊)、戦中期に(6冊、未完)が刊行。 刊行著作 [ ]• 『本居宣長全集』(全20巻別巻3)、、編、1968-1977年• 『本居宣長 40』 吉川幸次郎、、校注、岩波書店、1978年• 『本居宣長集 』 校注、、1983年、新装版2018年• 「紫文要領」「石上私淑言」を収録• 校注 『古今集遠鏡』 全2巻、2008年• 訳注 『本居宣長 「うひ山ぶみ」全訳注』、2009年• 村岡典嗣校訂 『うひ山ふみ 鈴屋問答録』、『玉くしげ・秘本玉くしげ』• 『玉勝間』(上・下)、『直毘靈』、各・岩波文庫(初刊) 1934-36年• 『排蘆小船 宣長「物のあはれ」歌論』 校注、岩波文庫 2003年• 『紫文要領』 子安宣邦校注、岩波文庫 2010年• 『宣長選集』編・校注、筑摩叢書 1986年。 「玉くしげ」など• 『現代語訳 本居宣長選集』山口志義夫訳、多摩通信社、新書判• 『玉くしげ - 美しい国のための提言』(玉くしげ、玉くしげ別巻、直毘霊)2007年• 『馭戎慨言 - 日本外交史』2009年• 『うい山ぶみ - 皇朝学入門』(うい山ぶみ、答問録、講後談)2010年• 『源氏物語玉の小櫛 - 物のあわれ論』 源氏物語玉の小櫛、第一巻、第二巻 2013年• 『本居宣長 コレクション日本歌人選058』編、和歌文学会監修、笠間書院 2012年 著作 [ ] 国学• 『』 校訂、全4巻(全44巻のうち第1から第17巻まで)• 『(なおびのみたま)』 村岡典嗣校訂、岩波文庫• 『』 同上• 『』 村岡校訂• 『』 村岡校訂• 『』 同上、でもある。 『遠鏡』 評論• 『(あしわけおぶね)』• 『』 語学• 『(てにをはひもかがみ)』• 『(じおんかなづかい)』• 『(ことばのたまのお)』• 『』 随筆・歌論• 『』 経済• 『秘本(ひほんたまくしげ)』 歴史• 『(ぎょじゅうがいげん)』 家集(和歌集)• 『』考證の為の自筆稿本(資料集) 「日本の絵図世に多いといっても、諸国の城下其外名所旧跡悉く在所が相違している。 又行程の宿場や馬借の駅が微細でない。 そのため自分は今この絵図を描くにあたり、城下町や船着場、名所遺跡の方角を正確に記し、在所を分明にして道中の行程や駅を微細に記し山川海島を悉くを描く。 ならびに六十六洲の諸郡を顕して、又知行や高田数を書いて、大坂を起点とした諸方への道法を東西に分てこれを記す、異国の道のりも略顕した。 延享三年五月吉日」(大日本天下四海画図より現代語訳)• 『』考證の為の自筆稿本(資料集)• 『』 本居家 [ ] 宣長以後、本居家は家督を継いだ養子の系譜に連なるの本居家と、実子の系譜に連なるの本居家に分かれる。 和歌山本居家歴代当主 [ ]• 1 本居宣長• 2 (1756-1833):本居宣長養子。 (本居建正)(1788-1819):本居大平長男。 32歳で早逝する。 (本居清島)(1789-1821):本居大平次男。 33歳で早逝する。 3 (1792-1855):本居大平養子。 学識は宣長に次ぐといわれる。 (本居永平)(1819-1842):本居大平四男。 後嗣となるが、24歳で早逝する。 4 (1834-1913):本居内遠長男。 を代表する。 ()(1852-1893):明治10年(1878年)に本居豊穎の養子となるが、明治12年(1880年)7月に離縁。 (増田于信)(1862-没年不詳):明治17年(1884年)に本居豊穎の養子となるが、まもなく離縁。 5 本居並子(1843-1886):本居豊穎長女。 6 (1885-1945):本居並子次男(増田于信長男)。。 の先駆者。 7 本居雷章( )(1909-1967):本居長世養子。 松坂本居家歴代当主 [ ]• 1 本居宣長• 2 (1763-1828):本居宣長長男。 32歳で失明。 3 本居有郷(1804-1852):本居春庭長男。 4 本居信郷(1825-1900):本居有郷養子。 本居宣長曾孫。 5 本居清造(1873-1958):本居信郷次男。 本居豊穎から学統を継承する。 6 本居弥生(1903-1983):本居清造長男。 7 本居芳野(1942-):在住。 ゆかりの地 [ ]• 「本居宣長先生修学の地」- 本居宣長が京都に遊学して、儒学や医学を学んだ塾跡地()に、の手によって建立。 参考文献・伝記等 [ ] 参考文献 [ ]• 日本古典文学大辞典編集委員会編 1986 , 日本古典文学大辞典簡約版, 岩波書店. 伝記 [ ]• 『本居宣長』 、初版1928年/東洋文庫(全2巻、校訂)、2008年• 『本居宣長』 新潮社、初版1977年/(上下)、改版2006年。 脚注入り• 城福勇 『本居宣長』 〈〉、新装版1990年ほか• 『本居宣長の世界』塙書房(新書)、1972年5月 のちオンデマンド版• 『本居宣長』講談社現代新書• 『本居宣長』のち岩波現代文庫• 子安宣邦『「宣長問題」とは何か』ちくま学芸文庫• 子安宣邦『宣長学講義』岩波書店• 子安宣邦『宣長と篤胤の世界』中央公論新社のち『平田篤胤の世界』ぺりかん社• 『本居宣長 文学と思想の巨人』 、2014年• 岩田隆 『本居宣長の生涯 その学の軌跡』 以文社、1999年• 『本居宣長』〈人と思想〉、新装版2014年• 『本居宣長 近世国学の成立』 〈読みなおす日本史〉、2017年。 新装版• 吉田悦之 『本居宣長 日本人のこころの言葉』 2015年• 吉田悦之 『第十回 『宣長さん』吟詠剣詩舞道大会記念 心力をつくして - 本居宣長の生涯』 『宣長さん』吟詠剣詩舞道実行委員会、2013年4月(非売品)• 中根道幸 『宣長さん 伊勢人の仕事』 和泉書院 2002年• 小井土繁(漫画)・岡田勝(シナリオ) 『鈴せんせい 歴史漫画・本居宣長のすべて』 松阪青年会議所、1989年• 公益財団法人 鈴屋遺蹟保存会本居宣長記念館編・刊行 『新版 本居宣長の世界』 2013年11月 研究 [ ]• 『仁斎・徂徠・宣長』 岩波書店、1975年、復刊2001年• 『本居宣長』、『文弱の価値』 /のち「全集 日本編」に分巻で収録。 各・筑摩書房• 『本居宣長』 、1978年/、2011年• 『相良亨著作集4 国学-本居宣長とその周辺 ほか』、1994年• 『からごころ』 中央公論社〈中公叢書〉、1986年/、2014年• 『本居宣長 言葉と雅び』 ぺりかん社、1991年、改訂版2004年• 岡田千昭編 『本居宣長の研究』 、2006年• 田中康二 『本居宣長の国文学』 ぺりかん社、2015年• 『本居宣長』 作品社、2018年• 『本居宣長事典』 編、出版、2001年 関連項目 [ ]• 関連人物 [ ]• (箕田水月)• 賀茂真淵• (宣長の一族の子孫) 脚注 [ ] []• 明治16年に。 -本居宣長記念館• 『官報』第6718号「叙任及辞令」1905年11月20日。 大久保正 「本居宣長」 , p. 1815• 師・真淵との関係では「後によき考への出できたらんには、必ずしも師の説にたがふとて、なはばかりそ」と言い、師の教えを仰ぎながらも良いと適ったことは遠慮なく主張したという。 儒教を体系化したその人には好意的であり、「聖人と人はいへども聖人のたぐひならめや孔子はよき人」という歌を詠んでいる• 一方で、徂徠の学問の方法論であるからは多大な影響を受けていることも指摘されている。 杉戸清彬 「馭戎慨言」 , p. 506• 70-72)• 父は小津三四右衛門定利(さだとし)。 兄宗五郎定治は養子。 宣長は実子としては長男だった。 江戸店にて病死、享年46歳• 商売見習いのためであったと考えられる。 当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆し、元年()12月上旬に書写作業完了。 また、この時期の見聞を元に、自分用の資料として『都考抜書(とこうばっしょ)』を3年より起筆、宝暦元年()頃まで書き継いだ。 定治、江戸神田紺屋町宅にて没、享年40歳• 『冠辞考』(かんじこう)は『万葉集』に出てくるについて詳細な解釈、精密な考察を施した書。 杉戸清彬 「玉勝間」 , pp. 1189-1190• この2つの文章から再構成された宣長と真淵との出会いは、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載された。 寛政4年(1792年)に五人• 岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典 [ 近世編 ] 』 原書房 2011年 101-102ページ• 天文学的な、0時(当時の表現で「九つ(ここのつ)」)を日付の境とする考え方はまだ一般的には広まっておらず、日の出を境とする意識が(当時のインテリである宣長にはともかく、残される他の者には)多かったということだろうが、そういったことまで詳細に述べている。 『こよみと天文・今昔』 p. 初めから仕官の交渉があったが、遠国であり、老身であるため、仕官を好まず、『記伝』の執筆中もあって断り、この噂を聞いた紀州藩が対抗的に招いた(先祖同様の士分に戻ったことを喜んだ)。 城福勇『本居宣長』pp. 187 - 188 吉川弘文館・ 新装版第二刷1990年。 青柳精一『診療報酬の歴史』思文閣出版、1996年、 P160-163• 布施昌一「医師の歴史」中央公論 1979• 『新版 本居宣長の世界』 p. 城福勇 『本居宣長』 吉川弘文館 1990年 p. 城福勇 『本居宣長』 吉川弘文館 1990年 pp. 25 - 26. 108. 考え方には儒教の影響も見られるとされる。 大久保正 「直毘霊」 , p. 1345• 岩田隆 「排蘆小船」 , p. 山口明穂 「てにをは紐鏡」 , p. 1282• 鈴木真喜男 「字音仮字用格」 , p. 844• 永野賢 「詞の玉緒」 , p. 733• 大久保正 「秘本玉くしげ」 , p. 1527 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。

次の