あきの いさむ。 マナビスト講座「秋野亥左牟と絵本」|イベント&講座案内|御殿山生涯学習美術センター

第103回 兵庫県・上郡町&たつの市へ 秋野亥左牟を感じる旅

あきの いさむ

略歴 [ ]• (10年) - 生まれ。 (昭和36年) - 彫刻科を中退。 (昭和37年) - の大学に客員教授として招かれた秋野不矩と一緒に移住。 (昭和41年) - に移住。 (昭和43年) - 『プンクマインチャ』を出版 ロシア、ヨーロッパ、モロッコ、メキシコ、アメリカ、カナダなどを巡る。 (昭和52年)から(6年)まで、に住む。 、と経て 、(平成17年)からに住んだ。 (平成23年)11月23日 - のため自宅で死去。 76歳没。 主な著書 [ ] 画を担当した作品• 再話『プンクマインチャ ネパール民話』( 新版 )• 訳『おれは歌だおれはここを歩く アメリカ・インディアンの詩』(福音館書店、1992年2月 )• 大塚勇三 再話『石のししのものがたり チベットの民話による』(福音館書店、1992年10月 )• 石垣幸代、秋野和子 文『サシバ舞う空』(福音館書店、2001年10月 )第51回 2002年 受賞• 金関寿夫 訳『神々の母に捧げる詩 続 アメリカ・インディアンの詩』(福音館書店、2012年11月 )第60回美術賞受賞 自伝•

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あきの いさむ

夫・とともに(1955年) 生誕 秋野ふく ・二俣町(現・二俣町)城山 死没 2001-10-11 (93歳没) 京都府 出身校 著名な実績 日本画 代表作 『インド女性』(1964年) 『ガンガー』(1979年) 『残雪』(1980年) 『廻廊』(1984年) 配偶者 (離婚) 受賞 第十一回 — 入選 昭和5年 「野を帰る」 第十三回帝展 — 入選 昭和7年 「ゆあみ」 第十四回帝展 — 入選 昭和8年 「朝露」 第十五回帝展 — 入選 昭和9年 「ゆの後」 新文展鑑査展 — 選奨 昭和11年 「砂上」 第一回 — 入選 昭和12年 「小児群像」 第三回 — 賞 昭和13年 「兄弟」 第二回新文展 — 特選 昭和13年 「紅裳」 大毎東日紀元二六〇〇年奉祝日本画展覧会 — 賞 昭和15年 「陽」 — 入選 昭和15年 「朝」 戦時特別文展 — 入選 昭和19年 「騎馬戦」 第二回 — 入選 昭和21年 「姉妹」 第三回日展 — 入選 昭和22年 「桔梗」 第一回上村松園賞 昭和26年 「少年群像」 京都府美術工芸功労者表彰 昭和56年 第27回 昭和60年 「秋野不矩自選展」 第1回京都美術文化賞 昭和63年 第43回 平成2年 第44回 平成3年 第25回日本芸術大賞 平成5年 第17回(平成10年度)京都府文化賞 — 特別功労賞 平成11年 (平成11年度) 平成11年 公式サイト 選出 創画会 後援者 内山竹蔵() 目次• 略歴 [ ] 神主の父 惣吉と母かつの五女として静岡県に生まれる。 貧乏な田舎暮らしで玩具も絵本もなかったため 、好きな絵を描いて育った。 小学六年の時、東京の美術学校出身の教師と親しく接し、やの絵画を知る。 から二部へ進学。 卒業後、の横山尋常高等小学校に赴任するも、生徒らの扱いにてこずり 、翌年教職を辞しての画家の内弟子となった。 画室の掃除や庭の草むしりのほか、五十種類以上飼われていた鳥の世話などで絵を描く暇はなかったが、師匠の作画の手伝いなどで蘊蓄の深い教えを受けた。 その後、師・林響がで倒れたことを契機に、「もっと絵を描きたい」と打ち明け 、のち京都へ出た。 京都では、師範学校時代の恩師の友人を頼って、の画塾「青甲社(しょうこうしゃ)」に入塾。 に嫁いでいた姉夫婦の家を寄食先とし 、出品画の制作の際はに部屋を借りた。 入塾翌年の1930年(昭和5年)、にて初出品・初入選して以来入選を重ね、続くで選奨(昭和11年)、特選(昭和13年)を受賞して者となった。 その傍ら、京都市立美術専門学校(のち京都市立美術大学、現)において後進の指導に当り、助教授・教授職を25年勤続して定年まで勤めた。 この間、50歳で離婚を経験し、その4年後には、教授が持ち帰ったインド赴任の話に真っ先に手を挙げ 、のとして約一年間当地で日本画を教えた。 帰国した翌年、インドを描いた連作で個展を開催。 その後の10年間は職務上の多忙もあって、ほぼ渡印の機会に恵まれなかったが 、定年を迎えて以降、長期のインド滞在を重ね 、当地の自然と風土を画題にした諸作品で新たな画境を開いた。 二度にわたる画室の火災を経て、京都のに移住。 三男一家と暮らしながら 隣接するアトリエにて制作を続け、その作品は80歳を超えてさらに大作となった。 91歳でを受章。 その2年後、美山町の自宅で心不全により永眠した。 所属した創画会の方針により、弟子はいない。 年譜 [ ]• (41年) - 二俣町に生まれる• (15年) - 静岡県女子師範学校(後の)卒業• (2年) - に師事• (昭和4年) - に入門• (昭和7年) - 結婚• (昭和12年) - 京都の女流日本画家の会「春泥会」結成に参加• (昭和17年) - の審査員に就任• (昭和23年) - 創造美術を結成• (昭和24年) - 助教授(京都市立美術専門学校)就任• (昭和26年) - 日本画部発足(創造美術を吸収合併)• (昭和33年) - 離婚• (昭和37年) - インド赴任• (昭和39年) - 個展(東京高島屋美術画廊)• (昭和41年) - 教授(京都市立美術大学)昇任• (昭和46年) - インド・・旅行(滞在3ヵ月)• (昭和47年) - 画室()がほぼ全焼• (昭和49年) - 定年退職、5月 渡印(滞在8ヵ月)、結成、7月 京芸大就任• (昭和51年) - 画室()を火事で焼失• (昭和52年) - 4月 渡印(滞在8ヵ月)• (昭和57年) - 10月 渡印(ナンダラ・ボース生誕祭列席、滞在3ヵ月)• (昭和58年) - 天竜市名誉市民• (昭和60年) - 2月 自選展(大阪・京都・東京池袋・浜松)、8月 評議員就任、審査員就任• (昭和61年) - 作品展、3月 インド・スリランカ旅行(滞在1ヵ月)• (昭和63年) - 個展(東京銀座・京都・大阪・浜松)、5月 渡印(滞在3ヵ月)• (3年) - 7月 渡印(滞在1ヵ月半)• (4年) - 10月 個展(東京佐賀町)• (5年) - 10月 回顧展(静岡県立美術館)• (平成10年) - 郷里に美術館(現)が完成• (平成11年) - 渡印(滞在40日)• (平成13年) - 10月 永眠 脚注 [ ] []• , p. 176. , p. 149. , p. , p. 190. 毎日新聞. 2011年11月24日. 2011年11月29日閲覧。 京都新聞. 2011年11月24日. 2011年11月29日閲覧。 , p. , p. 186. , pp. 15-16. , p. 『上手な老い方:葡萄の巻』サライ編集部編、小学館、1999年。 , p. 167. , pp. 19-20. , p. 174. , pp. 23-24. , pp. 175-177. 佐田智子『季節の思想人』平凡社、2001年、260頁。 178. , pp. 61-62. , p. , p. 103. , p. , p. , pp. 186-187. , p. 142. 大須賀潔「秋野不矩 人と芸術」『京都市立芸術大学芸術資料館年報:第三号』京都芸術資料館、1993年、18頁。 佐田智子『季節の思想人』平凡社、2001年、254頁。 , p. 154. 参考文献 [ ]• 『日本画を語る』大阪府「なにわ塾」、〈なにわ塾叢書 33〉、1990年。 秋野不矩『バウルの歌』、1992年。 「神さびた人」、「鄙びと雅びが渾然となって」『サンチョ・キホーテの旅』新潮社、2009年、44-52頁、 - 西部が秋野の思い出を語っている。 西部邁『日本の保守思想』角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、2012年5月、266-267頁、 - 西部が秋野について書いている。 関連項目 [ ]• (旧立) - 基本設計:。 を見た秋野不矩が藤森に依頼して建設された。 第11回(平成10年度)静岡県都市景観賞 優秀賞(静岡新聞社賞)受賞。 外部リンク [ ]•

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秋野不矩画伯紹介/浜松市

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略歴 [ ]• (10年) - 生まれ。 (昭和36年) - 彫刻科を中退。 (昭和37年) - の大学に客員教授として招かれた秋野不矩と一緒に移住。 (昭和41年) - に移住。 (昭和43年) - 『プンクマインチャ』を出版 ロシア、ヨーロッパ、モロッコ、メキシコ、アメリカ、カナダなどを巡る。 (昭和52年)から(6年)まで、に住む。 、と経て 、(平成17年)からに住んだ。 (平成23年)11月23日 - のため自宅で死去。 76歳没。 主な著書 [ ] 画を担当した作品• 再話『プンクマインチャ ネパール民話』( 新版 )• 訳『おれは歌だおれはここを歩く アメリカ・インディアンの詩』(福音館書店、1992年2月 )• 大塚勇三 再話『石のししのものがたり チベットの民話による』(福音館書店、1992年10月 )• 石垣幸代、秋野和子 文『サシバ舞う空』(福音館書店、2001年10月 )第51回 2002年 受賞• 金関寿夫 訳『神々の母に捧げる詩 続 アメリカ・インディアンの詩』(福音館書店、2012年11月 )第60回美術賞受賞 自伝•

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